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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 2004年8月30日、東京ガーデンパレス(文京区)において、作家の青木新門氏を迎え、「現代と親鸞の研究会」を開催した。
 「納棺夫」と蔑まれながら、死者の姿や叔父の臨終の場をとおして、親鸞の教えに出遇われ、現場に立って五感で認識することの大切さを痛感しておられる青木氏に、「現代の闇を破りうるか」をテーマに語っていただいた。ここにその一部を紹介する。(本多雅人)
現代の闇を破りうるか

作家 青木 新門
■光に遇う
 挫折を繰り返した果てに、たまたま葬儀社に勤めはじめ、死体をお棺に納める仕事をするようになりました。ところが、そのとたんに親戚や世間から「納棺夫」と白い目でみられました。そんな追い詰められた日々のなかで、死者に導かれるように出遇(であ)ったのは親鸞の教えでした。
 当初、私は納棺に行っても、死者を単なるモノとして見ていたのです。ところが、死ぬ直前のとても柔和な叔父の顔に出合ってから、死者に対して親近感を覚えるようになっていきました。それ以降、安らかな死者の顔を通して、死に対する恐怖感や死体に対する嫌悪感は、私の身体からなくなっていました。私は、生と死が限りなく近づいたとき、あるいは生きていながら死を100%受け入れたときに見えてくる世界こそがお浄土の世界ではないか、と考えるようになっていたのです。つまり、これが宗教で言う「光」ではないかと思い、あらためて仏教書を読むようになりました。
 特に、『教行信証』を読み始めて、「教巻(きょうのまき)」を読んだ瞬間に「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」という言葉が出てきました。「姿色清浄(ししきしょうじょう)にして、光顔巍巍とましますこと」(『真宗聖典』152頁 東本願寺出版部)という言葉があります。この光顔巍巍という言葉にふれたとき、涙が出てきました。それは、叔父の顔や死者たちの顔とオーバーラップしたからです。親鸞は、それを『教行信証』の中心に据えておられることに驚きました。親鸞は『無量寿経』が真実だ、と言います。その理由は、阿難(あなん)がその光に出遇ったということにあります。和讃(わさん)に「畢竟依(ひっきょうえ)を帰命(きみょう)せよ」(「浄土和讃」同479頁)とあるように、それは「遇斯(ぐし)光」、つまり阿弥陀さんの光、仏性に遇うということです。
 私は親鸞の「恩徳讃」(「如来大悲の恩徳は 身を粉(こ)にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」〈「正像末和讃」同505頁〉)が好きです。なぜかと言えば、「如来大悲」を私は遇斯光だと思っていますが、その光の恩徳だけで終らないで、「師主知識の恩徳」と言います。光に出遇っても、よき人に出遇わなかったら、光といえども間違っていくのです。ここがポイントです。七高僧を通じて、仏教が正しく伝えられた内容がかたちになったということはとても大事なことだと思います。だから、よき人に出遇わなければ、その光に直接出遇っても、自分のそのときの知識や能力でしか如来の言葉を伝えることはできないのです。
■人知を超える視点
 ―現場に立つ―

 光に遇うことは、現場に立って五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)で認識するということがなければできないことです。現代はそれがありません。
 例えば、医療関係などでもそうですが、現場なしに「知」で考えているのではないでしょうか。人知で“こうあるべきだ”と考えている場合は、どうしても現場とのズレと共に真実から離れていくのではないかと思っています。ここに、現代の深い闇を見ることができます。真実から離れないようにするためには、現場に立つということがとても大切です。特に、死ぬとか生きるということは、現場そのものだと思っています。遇斯光に遇うには回心(えしん)しかなく、「回心というは、自力(じりき)の心(しん)をひるがえし、すつるをいうなり」(『唯信鈔文意』同552頁)で、その回心は、現場での実存的体験以外にないのです。
 現代は、光顔巍巍とか不可思議光というスピリチュアリティ(霊性)の世界をあまりにも排除しているのではないでしょうか。スピリチュアリティというのは実存的体験です。だから私は、現場に立つことがとても大事ではないかと思っています。私は、「横超(おうちょう)」も「還相(げんそう)回向」という言葉もそれまでさっぱりわかりませんでしたが、安らかな死者の顔と出合ってから読みますと、頷くことができました。「光」というのは、光に出遇った人に出会うということなのです。要するに、叔父の臨終の場に出合う。出合えば、阿弥陀さんが叔父と一体になっているから、その光に出遇えば、またこちらも明るく燈(とも)る。燈るということは、自分にも電気が点(つ)くことだから、周りも明るくなるということです。これが「還相回向」であり、一瞬の間に点くわけだから「横超」ということなのです。こういうことは人知ではけっしてわからないのです。
 本来、生老病死を人間のありのままの姿として見るのが仏教の原点だ、と思うのです。この「ありのまま」というのは非常に大事だと思います。
 35歳の若さで亡くなった正岡子規が、死ぬ2日前まで書いた『病牀(びょうしょう)六尺』のなかで、「悟りというのは、平気で死ねることだと思っていたのが、そうではなくて平気で生きていることであったのだ」(取意)と述べています。私たちは、常に生老病死の全部を抱えながら生きているわけです。しかも、仏教に出遇ったからといって、私の生活は何も変わらないわけです。でも、もし親鸞の教えに出遇っていなかったら、私はすべてを受け止めきれず、パニックになっていたと思うのです。そこが大事なところです。これが、平気で生きていることなのだという捉え方をしています。しかしそれは、光に出遇うということ、つまり阿弥陀さんと共にあるからできるのであって、自分の力ではけっしてできないのです。
(文責:親鸞仏教センター)
※青木新門氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第8号(6月1日号)に掲載しています。
青木 新門(あおき しんもん)作家
1937年、富山県生まれ。早稲田大学中退。冠婚葬祭会社(現オークス)に入社し、専務取締役を経て、監査役。著書に葬儀の現場での体験を著した『納棺夫日記』(文春文庫)、『木漏れ日の風景』『転生回廊―聖地カイラス巡礼―』(以上、北日本新聞社)、詩集『雪道』(桂書房)。共著に『「死」をめぐる三つの話』(大法輪閣)、『出会い・出逢い・出遇い』(自照社出版)など多数。『納棺夫日記』は、“Coffinman”(Buddhist Education Center)として英訳され、2005年1月には中国語訳も出版された。また、『アンジャリ』(親鸞仏教センター)第8号に「光と言葉」を執筆いただいている。
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