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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 2010年5月21日、東京国際フォーラムにおいて、東京大学名誉教授であり、現在も臨床医として活躍されている大井玄氏をお迎えして、「現代と親鸞の研究会」を開催した。氏は、われわれの周りにある環境世界は客観的「事実」としてそこにあるが、それに対する認識は一人ひとり違い、それぞれがそれぞれの「意味の世界」を紡ぎだしながら生きていることを、医学的な臨床経験、脳科学さらには仏教の唯識思想をも駆使しながら明らかにされている。このことは、社会、そしてそれを構成する一人ひとりの他者を理解するということにおいて、とても重要な問題であろう。ここでは、その一部を紹介する。(嘱託研究員 大谷一郎)
「事実」と「意味の世界」

東京大学名誉教授 大  井   玄
■ 客観と主観
 清沢満之は「科学と宗教」という論文で、「科学は事実と原理とを基本として成立する」と述べ、科学的事実は客観的に推論され立証されるものに限られていることを指摘しています。さらに清沢は「宗教は主観的事実なり」という論文で、客観的な存在を求めようとする態度を退け、「私どもは神仏が存在するゆえに神仏を信ずるのではない。私どもが神仏を信ずるがゆえに、私どもに対して神仏が存在するのである」と断言しています。現在の脳科学、認知医学の知見はこのことが正しいことを証明していると言えます。また、心理学者で哲学者であるハーバード大学の教授、ウィリアム・ジェームスは、「宗教的経験の諸相」で、宗教において、宗教の成立、構造など事実を問題にする客観的存在判断(existential judgement)と、その人にとっての宗教的価値、意味を問題とする主観的価値判断(value judgement)を峻別しました。この点は清沢とまったく同じです。宗教経験は事実判断と異なる価値判断の次元の事象であると言えるでしょう。
■ 痴呆老人の紡ぐ「意味の世界」
 文化人類学者のクリフォード・ギアツは、「ヒトは自分の紡いだ意味の世界の網に宙ぶらりんになっている動物だ」と言っていますが、ヒトはそれぞれの「意味の世界」を紡いで生きていると言ってよいでしょう。痴呆老人と呼ばれる記憶や認知能力が低下した人々をみてみると、ヒトは、それぞれの「意味の世界」の中で、気持ちが落ち着き安心した状態でいられるよう、また自分の自尊心が保たれ「意味の世界」を壊さぬようにしていると言えます。それでは、「意味」とは何かというと、「その人の価値体系、経歴、記憶、あるいは環境情報が織りなす、私たち、他者も了解可能な心的に自然な文脈」だと理解できると思います。

■ 「意味の世界」と唯識、脳

  ヒトが「意味の世界」を紡ぐということは、認識論的には、「意味の世界」を仮構しているということです。認知能力の衰えていない正常なヒトも実は同様に世界を仮構しています。この最も如実な例が2001年9.11事件の後、当時のアメリカ合衆国の大統領だった、ジョージ・W・ブッシュが紡いだ、いわゆる現代の十字軍を率いる、という「意味の世界」です。このことはアメリカの国運を傾けたわけです。その意味の世界を紡ぐとき、事実には裏付けられていないこと、例えば大量破壊兵器の存在とか、アルカイダとサダム・フセインとの親密な関係など、情報を非常に恣意的に選択しています。このことは自分の「意味の世界」を保持しよう、守ろうという操作であるわけです。
 ヒトの脳の世界仮構について、初めて体系的に記載したのは大乗仏教の哲学者たち、弥勒(みろく)、無著(むじやく)、世親(せしん)、などの唯識という深層心理学をつくった学僧たちです。唯識三十頌の第1頌には「アーラヤ識は自我と存在の相を仮に想定する」とあります。一番深い深層心理である「アーラヤ識」を「脳」に置き換えますと現在の認知心理学者達が言っていることと同じになるわけです。ハーバード大学のスティーブ・コスリンは「脳は閲歴と記憶に基づき世界をつくっている」と言っていますが、これは唯識でいっていることと全く同じです。
 ここ数十年の脳科学的理解が唯識の認識と驚くほど一致しています。

■ 老いの「意味の世界」

 ある100歳を超える痴呆の婦人は、あるときは、社交的なマチュアな大人の人格であり、あるときは、赤ん坊の世話をする若い母親の人格になります。「今、いのちがあなたを生きている」という真宗大谷派の御遠忌テーマがありますが、これは素晴らしい言葉、事実だと思います。つまり、いのちが人格を変えて現れているわけです。「いのちがあなたをする」「いのちがわたしをする」ということです。「諸法無我」が現前しているという表現が良いのかもしれません。評論家の故加藤周一さんたちが日本人の死生観ということについて、人間は死に際して自己を超越した存在に繋がろうという希求があると言っていますが、それは、生物としての自分の子孫、先祖であったり、共同体、国家でもよいし神仏でもよいわけです。
 私はこの20年間、毎日約半時間座禅をしていますが、その感覚として、道元や良寛などの禅僧が、自己と宇宙との一体感をもっていたように感じることがあります。禅の公案で「父母未生以前本来の面目」とありますが、本当の自己、真実の自己とはなにか、ということになります。道元はそのことについて、次のような歌を詠んでいます。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」。良寛もこの歌を本歌としまして「形見(かたみ)とて 何かのこさむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」と詠んでいます。つまり自分は自然、世界、宇宙であるという、ある種のさとりの表現なのだと思います。夜空を見上げますと、137億年のすばらしい宇宙の姿が広がりますが、その中の地球という星に住む人間の本当に小さな脳が、宇宙大の「意味の世界」を紡ぐことができる。もしそれを自分でも感じられるならば無条件に安心し、日常の些細(ささい)なことに悩むこともできるのではないかと思います。
(文責:親鸞仏教センター)

※大井玄氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第22号(2011年3月1日号)に掲載しています。
大井 玄(おおい げん)東京大学名誉教授
1935年生まれ。1963年、東京大学医学部医学科卒。1977年、ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程修了。東京大学医学部助教授、帝京大学教授を経て東京大学医学部教授。後に国立環境研究所所長、参与を勤めた。東京大学名誉教授。医学博士。専門は、社会医学、一般内科、在宅医療、心療内科、環境医学。臨床医の立場を維持しながら国際保健、地域医療、終末期医療に関わっておられる。著書に『終末期医療−自分の死をとりもどすために』、『終末期医療<2>−死の前のクオリティ・オブ・ライフ』、『医療原論−医の人間学』(共著)、『痴呆の哲学−ぼけるのが怖い人のために』(以上弘文堂)、『エイズに学ぶ−性感染症対策への対案』(編著、日本評論社)、『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮社)、『環境世界と自己の系譜』(みすず書房)など多数。なお、『アンジャリ』第19号に「痴呆老人のまなざし」を執筆いただいている。
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