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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 2011年8月26日、東京ガーデンパレス(文京区)において、NPO 法人「使い捨て時代を考える会」相談役である槌田劭氏をお迎えして「人間知の傲慢、科学の欺瞞―大地に足して共に生きる―」というテーマで「現代と親鸞の研究会」を開催した。氏は、長年、原子力の虚構に代表される文明のあり方や、物欲に追われる現代の生活に対し、根源的な疑問を提示してこられ、いのちや人間の生き方について「大地に足した」思索と運動を展開してこられた。ここではその内容の一部を紹介したい。(嘱託研究員 山本伸裕)
人間知の傲慢(ごうまん)、科学の欺瞞(ぎまん)
―大地に足(あし)して共に生きる―


NPO 法人「使い捨て時代を考える会」相談役 槌田 劭(つちだ たかし)
■ 原発事故を受けて
 大地震後の原発事故を通して、これまで安全神話を振りまいてきた原子力行政や電力会社の嘘や欺瞞が明らかになりつつある。しかし、そうした事態を招いた責任は、原発を推進してきた一部の人たちや科学の傲慢さにあることはもちろんであるが、私たちも物質文明の享受について自己反省が必要である。この未曾有の悲劇は、大地に足して共に生きることを忘れた人間知の闇が招いた必然的な結果とも言える。

■ 崩壊するバベルの塔
 大地に足する生活とは何だろうか。このことを自分自身の問題として反省するためには、まずは今日一日、はたして自らの足で土の大地を一度でも踏みしめるということをしただろうかと問うてみればよい。都会に住む多くの人たちにとって、大地を踏みしめない生活のほうが、むしろ当たり前になってきているのではないか。
 人間のみならず、すべての生きとし生けるものは太陽の恵みを受け、大地から育ったものをいただいて命をつないでいる。生命とは、大地に支えられてはじめて存在するものである。にもかかわらず、人間知の生み出した文明は、大地に足して生きる生活を自ら奪い去ることで、野蛮状態から脱却し文明人になったと考え、そのことを誇ってきた。
 だが、そうした生活のありかた自体が、この震災を期に根底から問われようとしている。これまで文明が振りまいてきた幻想は、今回の原発の惨事によって、破綻に瀕(ひん)していることが明らかになった。現代のバベルの塔は、根本から崩れはじめているのである。

■ いのちと宗教
 釈尊は言っている。「大きないのちも小さないのちも、すべてのいのちに幸せであれ!」と。
 仏教に限らず、宗教の思想というのは、無差別で多元的な価値を認めるものである。だが、仏教のなかからも自力に偏った思想が起こってきたように、ともすれば、己の愚かさ、自力の不可能性から眼を背けがちなのが人間というものであろう。大地に足して生きることを求めるのが本来の宗教的眼(まなこ)だとすれば、現在の「科学」の眼は、まさにその対極にあると言える。それは、文明のもたらした科学技術は、不可能なものはないと盲信のうえに成り立っているからで、「科学技術教」という名の超自力的邪教と言っても過言ではないのかもしれない。
 悲観することと悲観的であること、あるいは絶望することと絶望的であると自覚することは、決して同じではない。創世記やギリシャ神話などにも見られるように、人類は、古来、宗教的な戒めを持ちながら生きてきた。文明社会は罪であり、そこには悲観的、絶望的な人間の眼があることは確かだが、大事なことは、いたずらに悲観したり絶望したりすることではなく、罪を免れない人間社会をいかに生きるかということだったのである。そうした姿勢を保つには、あるがままに見つめること、自らの存在と生活とを侮(あなど)ることなく、自己の愚かしさを含め見つめることから始めなくてはならない。

■ 科学者の欺瞞
 あるがままに見ないというのは、欺瞞に他ならない。原子力を「夢のエネルギー」と言い、原発を「原子力の平和利用」と言い募る言葉遣いは、まさにそうした欺瞞を象徴している。今回の原発事故で、原子力の専門家と称する人たちは、「想定外」という言葉を連発した。そもそも「想定外」というのは、科学者がいかに無力であるかを自白しているようなものだが、彼らがそうしたことを立派な顔をして平然と言えるのはなぜなのか。彼らは賢げにものを見ている。自分の愚にあまりに無自覚なのだ。
 そもそも原子力は「科学」なのだろうか。「科学」は失敗を重ねることによってそのつど真実を垣間見、進歩してきた学問である。ところが、原子力は決して失敗が許されない。その意味で言えば、原子力は「科学」ではないとも言える。そうした原子力が「科学」の地位を確保するために生み出されたものが「安全神話」ではなかったか。
 「科学」とは、「科【とが】」の学問でもあることを科学者は自覚しなければならない。英語では「科学」は science だが、この単語は con-science(良心)という言葉ともともと無関係ではなかった。「科学者」の自信過剰は、science から「良心」が失われることから生じる。そして自信過剰は、大いなる欺瞞を生み、その結果「安全神話」なるものが作り上げられてきたのだと考えられる。
■ 共生共貧〜大地に足する生活を
 現代の私たちの生活は、物欲の生活である。物欲の生活の背後には「金主主義」が張りついている。金さえ儲かればいいといった発想は、現生世代の利己主義、刹那主義を表していると言っていい。
 仏教は人間をむしばむ「三毒」の一つに「貪」を挙げる。「貪」という字は「貝」を「今」にすると書くが、これは現生世代の利己的刹那主義を戒めていると考えられる。それに対して「貧」という字は「貝」を「分」かつと書く。貝=食物を分かつ生き方は、利己的刹那的な生き方の対極であろう。食べ物を分かつことは、未来世代も含めて互いに命を分かち合うということでもある。民主主義とは、そういうことである。
 バベルの塔が崩壊しつつある今、真に反省し、目指すべきは、共生共貧という生き方ではないだろうか。あらためて人間知の思い上がりと自らの「愚」を見つめ直し、大地に足する「天恵自足の生活」を取り戻さなければならないときがきている。
(文責:親鸞仏教センター)
 
※槌田劭氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第25号(2012年12月1日号)に掲載しています。
槌田 劭(つちだ たかし)NPO 法人「使い捨て時代を考える会」相談役
1935年京都市生まれ。京都大学理学部化学科卒業。同大学院を経て、米国へ留学の後、京都大学工学部助教授(金属物理学)。その後辞職。元京都精華大学教員(環境社会学)。1973年「使い捨て時代を考える会」を設立、現在は相談役。様々な実践活動を通して、“現代”を考え、未来の可能性を模索している。
著書に、『共生の時代―使い捨て時代を超えて』、『破滅にいたる工業的くらし』、『未来へつなぐ農的くらし』、『未来へ生きる食を求めて―わが家の食卓十二ヶ月』、『脱原発・共生への道』、『自立と共生―地球時代を生きる』、『共生共貧・21世紀を生きる道』(以上、樹心社)、『工業社会の崩壊』(四季書房)、『化学者槌田龍太郎の意見』(共編・化学同人社)、『農の再生・人の再生―産直運動をめぐって』(人文書院)、『歩く速度で暮らす』(太郎次郎社)、『地球をこわさない生き方の本』(岩波書店)、『共感する環境学―地域の人びとに学ぶ』(共編・ミネルヴァ書房)、『水と暮らしの環境文化―京都から世界へつなぐ』(共編・昭和堂)など多数。
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