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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 2012年4月4日、東京ガーデンパレス(文京区)において、東京外国語大学学長の亀山郁夫先生をお迎えし「黙過する『神』―ドストエフスキー『悪霊』の世界―」というテーマで「現代と親鸞の研究会」を開催した。氏はドストエフスキーが『悪霊』で何を本当のテーマとしていたのか、またそれは現代のわれわれにどのような意味があるのかについて、いくつかのキーワードをもとに述べられた。以下に、その一部を報告する。
(嘱託研究員 田村晃徳)
黙過する「神」
─ドストエフスキー『悪霊』の世界─


東京外国語大学学長 亀 山 郁 夫
■ 『悪霊』のテーマ
 私が『悪霊』の最大のテーマと見たのは、スタヴローギンという神がかり的な男と、マトリョーシャという少女との関係でした。『悪霊』をお読みになった方はわかるように、スタヴローギンはマトリョーシャを凌辱します。そして、この少女がスタヴローギンのアパートのドア口に現れ、彼に抗議するのです。その後、彼女は同じ階の鶏小屋のような納屋に入っていくのです。その様子をスタヴローギンはずっと見ているのです。
 その少女が納屋で死のうとしていることを、スタヴローギンはもちろん察知しています。しかし、察知していながら彼は微動だにすることなく、ある一定の時間をアパートの自室で待ち続けるのです。そして、彼がそのようにしている何分かの間に、少女はその納屋のなかで首をつって死ぬのです。しかもなおかつ、スタヴローギンは誰にも気づかれないように廊下に出てその納屋の入り口まで行き、羽目板といいましょうか、板の隙間から少女の死体を覗くのです。
 そのような行為がこの『悪霊』の最大のテーマであり、悪霊たるゆえんであると思うのです。今まで言われてきたように、いわゆる革命結社が自分たちの仲間を殺したという、人の命を命と思わないような、そうした革命家たちの非人道さが『悪霊』のメーンテーマなのではなく、むしろ、スタヴローギンが少女の苦しみや悲しみから、まったく自分を隔絶させ、そして好奇心そのものの塊と化して、その状況にいる、そういう視線の在り方が問題なのです。

■ アウラの経験
 私はヴァルター・ベンヤミンの言葉にならってそれをアウラの喪失と呼んでいます。スタヴローギンという男が少女の死体を覗くという、その行為のもつ恐ろしさにまつわるある種の即物的な感覚、正確には負のオーラと言えるでしょうか。つまり、目の前の出来事を、ただ単に事実としてしか受けとめることができず、その事実が放っているメタフィジックな感覚を経験できなくなっている事態です。
 『悪霊』のスタヴローギンの「告白」のなかで、何度も述べられているのは、すべて運命を彼自身が担っていることです。つまり、マトリョーシャという14歳の少女が納屋に向かって行くときに、彼は追いかけて彼女を救うことができたはずですが、それをしませんでした。
 普通の人間ならばという言い方は変ですが、そういう状況で取るべき人間としての行動を一切取らずに、彼自身が神的な視点に立ってしまう。そして、その神的な視点に立つことにある種の快楽を覚えるわけです。この人間の根本的な欠陥がどこにあるのかということをドストエフスキーは探求していくのです。
 では、先ほどの「アウラ」とは一体何かというと、ある物体なり人間なりから何らかの働きかけを受けることを意味しています。つまり、その対象(オブジェ)との関係性のなかで、ある種のオーラを経験するということです。
 例えば、私が一人の男性や女性を見て、そこから何かを感じることがあります。魅力的に思ったり、あるいは批判的なものを感じます。ですから、人間としての単なる輪郭ではなくて、その輪郭を包み込んでいるある種の精神的な働きかけというものを経験できるということ、これがアウラなのです。

■ アウラの喪失
 しかし、もしこういった対象がすべて輪郭でしか経験できなくなってしまえば、つまり人間が視覚だけの存在と化してしまえば、それは一切のオーラを喪失した「目だけの人間」ということになるわけです。われわれの現代の世界において「目だけの人間」は、ことによると無数に存在するのかと思うことがあるのです。それは私にとってのみならず、世界が痛感すべき悲劇と言ってよいでしょう。
 『悪霊』で言えばスタヴローギンの、少女に対して好奇心の塊と化すという、いわば剥(む)き出しのかたちで現れてくる欲望は、対象に対するアウラとどう関係しているのかという問題が出てくるのです。ドストエフスキーは、実はここで何かしら根本的なテーマを呈示(ていじ)しようとしていたのではないかと思われるのです。
 そこで、ドストエフスキーが『悪霊』でテーマとして描いていったのがスタヴローギンという、最も悲劇的な人間だったのです。この人間を徹底的に解剖すれば、同時代の革命思想がもっている問題点や限界を全部解明できると思いました。スタヴローギンが犯したさまざまな犯罪は、アウラを喪失した人間の行き着く先の悲劇だということです。
 つまり、当時の革命を担っている人々は、結局は最終的にこういうところにたどり着いてしまう。唯物論を革命の原理にするということは、アウラの存在の否定を意味するわけで、最終的にはスタヴローギン自身が行った少女凌辱というところにまでたどり着きます。そこまで行かないと革命は実現できないのだという、そういう革命家たちのメンタリティを絶対に許さないという思いがドストエフスキーのなかにあったのです。その意味において『悪霊』のテーマを、最終的にはすべてスタヴローギンという人間像のなかに集約させていったということなのです。(文責:親鸞仏教センター)

※亀山郁夫氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第26号(2013年6月1日号)に掲載しています。

亀山 郁夫(かめやま いくお)東京外国語大学学長
1949年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。1982年天理大学外国語学部助教授、1987年同志社大学法学部助教授、1990年東京外国語大学外国語学部助教授を経て、1993年同教授。2007年東京外国語大学学長に就任。
著書に、『甦えるフレーブニコフ』(晶文社/平凡社ライブラリー※後者は「甦る―」)、『終末と革命のロシア・ルネサンス』(岩波書店/増訂版岩波現代文庫)、『破滅のマヤコフスキー』(筑摩書房)、『磔のロシア―スターリンと芸術家たち』(岩波書店)、『熱狂とユーフォリア―スターリン学のための序章』(平凡社)、『ドストエフスキー 父殺しの文学〈上・下〉』(日本放送出版協会)、『「悪霊」 神になりたかった男』(みすず書房)、『大審問官スターリン』(小学館)、『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』(光文社新書)、『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)、『ドストエフスキー 共苦する力』(東京外国語大学出版会)、『「罪と罰」ノート』(平凡社新書)、『ドストエフスキーとの59の旅』(日本経済新聞出版社)、『チャイコフスキーがなぜか好き』(PHP新書)など多数。最近の訳書に、ジョン・アードイン『ゲルギエフとサンクトペテルブルグの奇蹟』(音楽の友社)、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5冊)、同『罪と罰』(全3冊)、同『悪霊』(全3冊)、同『悪霊 別巻「スタヴローギンの告白」異稿』(以上光文社古典新訳文庫)など多数。なお、『アンジャリ』第21号に「ひとつの悲観論」をご執筆いただいている。
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