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研究活動報告
清沢満之研究会
 宗教哲学という学問は、清沢自身が述べているように、日本においては当時確立したばかりの領域であった。それは、明治になり西洋の思想が輸入されたことによる。それらの日本への紹介により、いわば宗教を俯瞰的にとらえる視野が与えられたのである。その意味で『宗教哲学骸骨』(以下『骸骨』と略記)は日本において宗教哲学がいかにして成立していったのかを教えてくれる書物なのである。 今回は、第二章「有限無限」についての研究会の議論を報告する。(出典は『清沢満之全集』岩波書店とした。)
清沢満之研究会報告(2)

親鸞仏教センター研究員 田村 晃徳
■「二大項」としての有限と無限
 『骸骨』第二章は有限と無限を考察することに主旨がある。第二章は「有限無限」と書かれた項目から論が始められている。このことからも、清沢が両者を思想史上における最重要な概念として理解していたことがうかがえる。

抑有限無限は古来思想の二大項にして其関係に於ては、甚だ説明し難き所ありと雖ども之を要するに有限無限は相離る能はざる関係を有するものなりとするにあり(『全集』第1巻8頁)

 清沢は有限無限を思想の「二大項」としている。事実、清沢の「西洋哲学史講義」を見ても、有限無限について各哲学者がどのように理解していたのかについて記されていた。「二大項」とされると、イメージがつけづらいかもしれない。だが、後に見るように清沢が有限無限を宗教上の側面から考えようとしていることを想起すれば、有限無限とは人間と絶対者との関係などをイメージすればいいのではないだろうか。つまり、有限としての人間と無限としての絶対者が、いかに関係を持つことができるのか。その点について考えようとしているのである。もちろん、有限とは「万物万化」(同前)と言われるように人間だけを示すのではないし、無限についても清沢はいくつかの用語を使い説明している。西洋の哲学史をみれば、たとえば永遠と世俗と言われるように、表現は異なっても、様々な哲学者が有限と無限の関係について語っていたことがわかる。その点について東京経済大学の今村仁司先生は当研究会での講義において「無限について語ることは西洋哲学の一番の鍵」であったとおっしゃっていた。
 そうであれば清沢が有限無限の言葉で具体的に何を考えていたのかが、重要となる。『骸骨』本文では「無限を独立、絶対等といひ有限を依立、相対等といふ」(同頁)とされていた。存在の独立については清沢が後にわたるまで大切にしていたテーマであるが、二章についての自筆書き込みに次のように記していたことは、この章の主題を示唆するものとして重要であろう。

真神存在の證明(ロッツエ氏參照)
(一)実在学的
(二)宇宙学的
(三)物理神学的
吾人は之を述ぶる事左の如し。
有限なるものあるか、無限なるものなかるべからず。
若し有限なしと云はゞ、汝の自身は是れ何ものぞ。
少くも汝の思想は是れ何ものぞ。(同前38頁)

 また「宗教哲学骸骨講義」では「宗尊体論」の冒頭に「ゴッドの事を論ずる也。『骸骨』第二章を参照すべし」(同前60頁)として、カントなどの説を紹介している。「宗尊体」とは神や仏など宗教において帰依すべき対象という意味であろう。そうであるならば、この章で無限についての議論がいくつか出てくる際にも、清沢が何を見据えて議論を展開しようとしているのか、について私たちも具体像を持つことが出来る。無限については第一章についての自筆書き入れで、「無限」について本質、実際、不可知的、理、などと21項目の例をあげた後に、「之を無限と云ひ、真如と云ひ、神、仏、等と云ふ」(同前37頁)と記していたことを想起するのも有益であろう。
 ではもう一方の項である「有限」はどのように考えられていたのか。先程の有限を「依立、相対」とする定義をふまえれば、有限が有限である最大の理由は、他の事物によって制限されることだろう。事物がその特異性を持つことが出来るのは、他との比較に於いてそこに差異があるからだ。英訳を見ると、その点について次のように記されていた。
 Omnis determinatio est negatio(同前140頁)
 これはスピノザの言葉で「あらゆる規定は否定である」ということだ。つまりAである、ということは、同時にBではないという否定を伴い成立するのだ、ということを言っている。だが、同時に他ではない、と否定することは、同時に自らも他により否定されることを意味する。つまり、相互制限こそが有限的存在の本質なのである。他の事物により制限されることが有限の有限たる所以だと言える。
 もっとも、さきの無限と同様にここでも単に抽象論を展開しているわけではない。先にも書いたように「若し有限なしと云はゞ、汝の自身はこれ何ものぞ」と自筆書き入れでいわれていた。第一章でも確認してきたように有限とは万物であるが、この言葉からも有限という言葉で、第一には人間を想定していると考えて良いのではないだろうか。それは「宗教哲学骸骨講義」に

有限とは吾人自己の事也。一切万物皆な有限なれ共、中に於いて自分自らが有限なる事明らか也。且、宗教は自身に就くものなれば、今こゝこに有限と云ふも、自己を指したる也。されど、この自身が有限也と云ふ内には、一切万物も亦た自己と同じく有限也と云ふ意味をも含めり。(同前57〜58頁)

とされていたことからも、明らかだろう。
■有限無限論の指向するもの
 ここで最後に、有限無限論の指向するものを再度確認しておきたい。清沢は何故有限無限について、一章を与えてまで述べようとするのか。それは有限無限が清沢の宗教論の定義と密接に関わっているからである。清沢は宗教の定義を「有限無限の調和」であり、「故に『骸骨』の第二章に、有限無限を論」じた(同前57頁)としていた。確かに第二章においては数式を用いたりするなど、細かに項が分けられ有限無限について確認され、様々な側面から定義が述べられている。しかし、これらが指向するものが宗教論、ことに人間と絶対(者)との関係を論究するために、その準備として述べられていることは間違いないだろう。
 だが、有限無限に関する清沢の議論には問いも残る。それは有限と無限との関係そのものについてである。それは清沢の文章によれば「有限無限は相離るゝ能はざる関係」(同前8頁)であり、あるいは「無限有限は同一体たらざるべからざるなり」(同前9頁)とされるような指摘である。その問いについて、また第二章の重要な項目である「主伴互具」や「自力他力」については次回ふれてみたい。
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