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研究活動報告
清沢満之研究会
 2008年3月27日、東京ガーデンパレス(文京区)に大谷大学大学院特別任用教授(当時)の長谷正當先生をお招きして、「自己とは何ぞやという問いをめぐって―『無限の因果』からみた清沢の二種回向論―」という講題でお話しいただいた。外部から講師を招聘して開催される「清沢満之研究会」は、過去9回を数えるが、今回は西洋哲学を専門とされる長谷先生ならではの鋭い視点に触発されて、哲学・思想的な観点から活発な議論が展開された。以下、講義の一部を紹介し、第2回(通算7回)報告とする。
「自己とは何ぞや」 という問いをめぐって

親鸞仏教センター研究員 山本 伸裕
■ 現前の境遇に落在せるもの
 晩年の日記、『臘扇記』(明治31年10月24日付)のなかで、清沢満之は「自己とは何ぞや」という自身が投じた問い掛けに対して、次のように答えている。
自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、任運に、法爾に、此現前の境遇に落在せるもの即ち是なり。
(『清沢満之全集』岩波書店、第6巻、110頁)
 長谷氏によれば、ここには清沢の「自己」についての二つの認識が示されている。一つは、現前の「自己」なる存在は、無限の過去からのさまざまな因縁の集積によって、いわば偶然に与えられたもの、「宿業の全体」を引き受けるところの存在として、意志をはるかに超えた「必然性」を付与されて現在の境遇にあるという認識。もう一つは、そうした「自己」は、それゆえ、存在そのものに始原的に暗く重くのしかかる重力のごときものを背負って生きていかねばならないという非情な性格を免れることができないけれども、「絶対無限の妙用に乗託」し、「無限」に運ばれることで、その重力を取り払うことが可能であるといった認識である。
 つまり、私たちが絶対差別の境界に身を置いている以上、自己の宿業が重力と感じられるのは当然のことなのだが、その宿業も、「絶対無限の妙用」のうちに捉え直され、据え直されることで、そこに無限平等の世界が開かれてくる。そこではじめて、私たちは現前の境遇において宿業の全体を背負って立つことが可能になる。そういうところに、清沢は、自身の見いだした「自己」なるものの本質を語ろうとしているものと考えられるのである。
■ 「伴」の方向に自己を捉える
 ところで、西洋の思想に目を向ければ、「自己」についてのそうした押さえ方は、何も清沢に固有のものでないことがわかる。これはたとえば、他者から呼び掛けられて、「はい、ここに(me-voci)」と逃げも隠れもせず「自己を暴露する」関係が成り立つところに、責任をもった自覚存在としての「自己」のありようを捉えようとした、E. レヴィナス(Emmanuel Levinas)の思想とも根本において共鳴し合うところがあるように思われるし、また、日本の過去の思想に目を向けても、同じことは宿業にのしかかられた束縛の身が、弥陀の本願に呼びかけられ、それに支えられることで、宿業の自己を背負って生きていく道を見いだした親鸞の思想にも確認し得るであろう。
 清沢は実際、初期の宗教哲学の議論のなかで、自己という存在を「主」の方向ではなく、「主-伴」の関係をもつものとして、むしろ「伴」に重点を置いて捉えようとしている。これは P. リクール(Paul Ricoeur)やレヴィナスによって掘り下げられる自己把握の方向と基本的に一致していると考えられる。
 周知のように、デカルト以来、西欧近世哲学は、自己をもっぱら「主」の方向に追究しようとしてきた。従来、西洋哲学では、自己は、基本的には主格、すなわち「知るもの」として、一切の認識を基礎づける「超越論的意識」(フッサール)として捉えられてきたのである。
■ 「対格」の自己
 そうした方向の自己把握に対してレヴィナスらは、「自己」は「対格」において、(「私は(je)」の方向ではなく)「私を(me, moi, soi)」として捉えられるべきだと主張する。
 ではいったい、「自己」をそのように「対格」の方向に捉えることと、清沢が表明している自己の認識との間には、どのような関連性が指摘できるのだろうか。  そもそも、「主格」の「自己」というものは、動作の主体として一切の事物や状況の外部に超出しているものとして位置づけられる。それに対し、「対格」としての「自己」は、つねに事物や状況との関わりのなかに置かれ、外的状況、すなわち「もの」との繋つながりの外部には超出できない存在として捉えられるところの「自己」にほかならない。  たとえば、英語で「I find myself in Tokyo.(私は東京にいる)」と表現される場合、「主格」の I(仏語では Je に相当)は、あくまで東京を超越した存在であって、東京に属するものではない。一方、「対格」としての myself(仏語では me に相当)は、つねに状況のなかに置かれ、動詞 find と結びついて再帰するものとして捉えられることになる。このように「もの」や「こと」との関わりのうちに埋没して、それらと渾然一体となった「自己」のありようは、対象化がきわめて困難であろう。それゆえ、 そうした自己のありようは、私たちの意識にはなかなか現れにくいものとなる。氷山に譬えれば、海面上に現れた部分が「主格」の「自己」に相当するのに対し、「対格」の「自己」は水中に沈んでいて見えない部分に相当するであろう。
 ところで親鸞は、「機の深信」を善導が「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫来常に流転して出離の縁あることなきを決定して信ず」と述べたのに対し、端的に「自身を深信す」とだけ記している。このことは、清沢の「自己」の認識を問ううえでも大きな意味をもつと思われる。要するに、ここで親鸞は、「自己」を「対格」において捉えようとしていると考えられるのである。
■ 「自己」の根拠に出会う
 ともあれ、そうした方向に「自己」を追究していくことは、「対格」の「自己」を貫いて自己の同一性を支えている何かを見いだしていく営みともなろう。つまり、私たちは自己の根源に自己を超えた「他者」「汝」「超越者」との繋がりを、清沢の表現を借りれば「無限」との繋がりを見いだすことで、自己が自己たり得る根拠を初めて見いだせるということなのである。別言すれば、自己がそのうちに秘めた無限性を開化・展開させていくと同時に、自己をどこまでも有限な自己として受け止めなおしていこうとする地平にこそ、「自己とは何ぞや」という問いの行く先に浮かび上がる真の自己のすがたがあるということでもある。
 このことは、「二種回向」の解釈とも、深く関わってくる。清沢はそれを「無限の因果」として押さえようとしたわけであるが、詳細については、『現代と親鸞』第17号に譲りたい。
長谷正當(はせ しょうとう) 京都大学名誉教授
1937年、富山県に生まれる。1965年、京都大学大学院文学研究科博士課程修了(宗教学専攻)。文学博士。元大谷大学大学院特別任用教授。専門は、宗教哲学。著書に『欲望の哲学―浄土教世界の思索』『心に映る無限―空のイマージュ化』(以上、法蔵館)、『象徴と想像力』(創文社)、共著に『思想史の巨人たち』(北樹出版)、共編著に『現代宗教思想を学ぶ人のために』(世界思想社)、『宗教の根源性と現代』(晃洋書房)など多数。
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