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研究活動報告
清沢満之研究会
 2013年2月20日、フクラシア東京ステーション(千代田区)にて、大谷大学副学長の水島見一氏をお招きして「清沢満之研究会」を開催した。「清沢満之の真宗的意義」というテーマでご講義いただいた後、研究員を交えて活発な議論が交わされた。当日の内容は多岐にわたるものであったが、紙幅の都合上、ここではその一部を紹介する。
清沢満之の真宗的意義

元親鸞仏教センター研究員 春近 敬
■ 信仰の主体
 清沢満之を明らかにするということにおいては、単に残された書物や論文の分析だけでなく、清沢満之という人の歩みをトータルで見る必要があります。むしろ、文献のみの分析に終始すればするほど、ある意味で清沢満之から遠ざかっていくという側面があると思います。
 清沢満之は非常に苦悩の多い人生を歩まれました。結核を抱えていた清沢の最も大きな課題は、死の問題でした。そして、家族や親類や寺をめぐって、身も細るような人情の煩累(はんるい)にもさいなまれていました。このようなものはいずれも代わりがきかず、自分で引き受けなければならないものです。そのような問題に清沢は立ち向かっていたのだということを踏まえて、かの「自己トハ何ソヤ是レ人世ノ根本的問題ナリ」(『臘扇記』)という文章を読むと、非常に理解しやすくなります。自己とは何であるかといえば、端的に言えば宿業の身なのであり、結核で死ぬことに対する恐怖をもつ自己、人情の煩累でやりきれない自己なのだ、ということがわかります。そして、「自己トハ他ナシ絶対無限ノ妙用(みょうゆう)ニ乗托シテ任運ニ法爾(ほうに)ニ此(この)境遇ニ落在セルモノ即チ是ナリ」と続きます。落在せるものとは何かといえば、業縁存在の自己をそのままにいただいたということなのだと読むことができます。
 このような清沢の述懐を、『歎異抄』の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『真宗聖典』640頁、東本願寺出版部〈以下『聖典』と略記〉)の文に照らしてみると、親鸞聖人と清沢満之は、ともに同じ本願の仏道を歩まれた方なのだということがわかります。「五劫思惟の願をよくよく案ずれば」というところは「自己トハ何ソヤ」という問題に、「そくばくの業をもちける身にてありけるを」を「落在セルモノ即チ是ナリ」に、「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」を「絶対無限ノ妙用ニ乗托」する自分だということに、それぞれ合わせて読むことができます。
親鸞の仏道の根幹は、宿業の身と本願との関係です。清沢も「宿業」や「本願」という言葉は使っていませんが、言っている内容は同じです。
 曽我量深は、「(清沢が)『エピクテタスの教訓』を読まれて、始めて自己の分限を自覚することが──実際において自覚することが──真実の救済であると了解できたのである。」(『分水嶺の本願』)と押さえています。一般論でなく、実際において自覚することが真の救済であるということです。清沢は親鸞をどのように解釈したか、というような問題ではなく、清沢も親鸞と同じ本願の道に立たれたのだ、というかたちで私は受け止めています。
■ 信後の生活
 親鸞聖人は『教行信証』「信巻」「証巻」などで信心を得た後の生活について言及しておられますが、清沢満之はそれを具体的なかたちで示しています。
信心を得れば迷わないのかといえば、決してそうではありません。信心を得てもやはり自力的な妄念に襲われます。しかし、それがかえって他力の信楽(しんぎょう)を明らかにすることができるのです。これを清沢は「信仰ト修善ト交互ニ刺戟策励(しげきさくれい)シテ以テ吾人ヲ開発セシムルモノ是レ則チ絶対無限ナル妙用ノ然ラシムル所豈(あ)ニ讃歎ニ堪ユベケンヤ」(『臘扇記』)と書いておられます。そして、これが「自信教人信ニ至ル第一要件ナリ《悟後修行ノ風光ナリ》」であり、修善と自信教人信との「連瑣的循環行事」がずっと続いていくのだと押さえておられます。
 われわれは、仏道に立てば今までとは違う自分になれるかのような感覚を拭い去ることがなかなかできません。しかし、清沢の文章を読めば、また元に戻り、またそこで聞法していくのだということ、むしろ信の一念において、いよいよ娑婆を担って歩いて行けるのだということが明らかにされるのです。
 これを親鸞にたずねれば、「信巻」真仏弟子釈に「自ら信じ人を教えて信ぜしむ」(『聖典』247頁)とあります。そして真の仏弟子は弥勒に同じく、娑婆の業火の中をも歩いて行けるのだと言っておられます。そして、最後には「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞」(同251頁)と、自らの宿業に立ち帰るのです。
 清沢の「他力の救済」は、『精神界』に掲載されたときには「嗚呼他力救済の念は、能く我等をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟達安楽の浄土に入らしむ」と記述されていますが、元の手稿では、「能く“我”をして」(“ ”は筆者、以下同じ)とあり、「悟達安楽の浄土に入らしむる“が如し”」となっています。同じく、「我は実にこの念により現に救済されつゝあり」の記述が、元は「現に救済されつゝある“を感ず”」という表現になっています。ここからも、清沢は一般論でなく、自己の現生の問題として受け止められていたことがわかります。
 曽我量深は、「私共は過去の世界に酔生夢死してはならぬ」(「闇へ闇へ」)と言っておられます。信を得た段階ですでに過去なのであって、そこにいつまでも憧れていてはいけないのだということです。そして、二河譬のたとえについて「畢竟(ひっきょう)光明の観念世界から醒(さ)めて、生死現実の闇黒の世界に念仏の燈火を掲げることを示すものである。光から闇へ、闇へ闇へ、此が他力の大道である」と言います。信を得たから終わるのではなく、信を得たからこそ、そこにひとつの業因縁の娑婆と向き合って歩んでいく力を賜るのです。このようなところに親鸞聖人は立っておられて、清沢満之もまた同じところに立って歩まれたのだと思います。

※水島見一氏の講義と質疑は、『現代と親鸞』第27号(2013年12月1日号)に掲載しています。

水島見一(みずしま けんいち) 大谷大学副学長・教授
1950年富山県生まれ。大谷大学大学院後期博士課程単位取得退学。大谷高校教諭を経て、2002年大谷大学文学部准教授。現在同教授。博士(文学)。
著書に、『近代真宗史論─高光大船の生涯と思想』(法蔵館)、『大谷派なる宗教的精神真宗同朋会運動の源流』(東本願寺出版部)、『近・現代真宗教学史研究序説─真宗大谷派における改革運動の軌跡』(法蔵館)、『信は生活にあり─高光大船の生涯─』(法蔵館)など。 論文に、「昭和初期の仏者たち(上・下)─興法学園─」(大谷大学真宗学会『親鸞教学』88・89)、「金子大栄『宗教的覚醒』について─真宗と戦争─」(『親鸞教学』93)、「曽我量深の自覚道(上・下)」(『親鸞教学』98・99)、ほか多数。 共著に、『道ここに在り─高光大船の世界』(東本願寺出版部)、『生徒指導の方法と実践』(八千代出版)。編集に、『高光大船の世界全4巻』(法蔵館)、『松原祐善講義集全4巻』(文栄堂)。
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