親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 清沢満之研究会
研究活動報告
清沢満之研究会
 親鸞仏教センターでは、清沢満之の思想の現代的意味を究明することを目的に、設立当初より継続して「清沢満之研究会」を開催している。現在は「清沢満之を一貫する思想」という課題のもと、1898(明治31)年から翌年にかけて書かれた『臘扇記(ろうせんき)』をテキストとして、月に一回のペースで考究を進めている。今回は、前半部分の日誌から明らかになった、当時の歴史的状況とそれにともなう『臘扇記』の記述の展開を報告する。
転換の契機と志願の再燃

親鸞仏教センター研究員 名和 達宣
■ 転換の契機 ― 新法主及三連枝一条 ―
 『臘扇記』前半(第一号)の記述を追っていくなかで、その内容が劇的に変化する局面が二箇所ある。一つ目は、『エピクテタス語録』の英文書写が始まる日(1898年9月27日)。二つ目は、そのエピクテタスを潜(くぐ)った思索が日本語で書き出される日(10月12日)である。そして、これらの転換の契機となったのが、清沢が「新法主及三連枝一条」と呼ぶ事件である。
 ここで清沢が「一条」と呼ぶものは、当時の法主(現在の門首)、現如(大谷光瑩)の子である新法主・大谷光演と、三人の連枝(れんし:法主の家系の子息、浄暁院・慧日院・能浄院)が、1898年の8月下旬に突然、寺務所の「諮議」や法主の「允可」を待たずに京都の東本願寺を脱出し、新法主と浄暁院の二名は東京へ留学、慧日院と能浄院は海外(上海・台湾)での開教を表明したという事件である。この一件は、ただちに全国へ通達が出され、当時の大谷派機関誌『常葉』の号外(8月30日発行)では、「新御門跡の英断」と称して華々しく発表された。
 清沢はこの一件を知るやいなや、月見覚了・清川円誠といった、かつての同志との往復書簡を重ねていく。文面には「感服」「感心」「感激」といった言葉が並び、その想いを新法主へ伝えようと努めていた様子が窺(うかが)える。自坊の西方寺では門徒に加えて地域の僧侶や名士を集め、「大谷派一大事報告演説」を開催した(9月5日)。
 そのような一連の活動の成果であろうか、やがて新法主の側近・葦原林元から「スグノボレ」との電報が届き(9月16日)、その二日後に「東上ノ途ニ就ク」こととなる。わずか十日間の滞在であったが、この時の東上こそが、清沢の身に大きな転回をもたらした。すなわち、その期間中に実現した新法主との面会が機縁となって、翌年(1899年6月)からの東京生活が導かれる。そして、二年後の1901(明治34)年には、京都から東京巣鴨の地に真宗大学が移転建設され(10月開校)、その初代学監となる。さらには、時を同じくして、本郷森川町には浩々洞が開かれ、そこに彼を慕う青年たちが集った。
■ 志願の再燃 ― 東京への想い ―
 「新法主及三連枝一条」の事件を知った時、清沢がことさらに注目したものは、おそらく「東京」という地名であった。東京――それは一年前の教団革新運動の折、何としても「教育の中心」を置くようにと願った場所であった。1897(明治30)年7月、清沢は『教界時言』上に「真宗大学新築の位置に就きて」という題の論説を発表する。そこでは、まず革新の目的は、制度の改正や会議の開設ではなく「精神的革新」にこそあると主張される。そして、「なぜ精神的革新が成功しないのか」という問いが立てられ、それは「僧侶の腐敗」によるもので、その「主要なる原因」は「僧侶教育の怠慢」にあると押さえられる。それでは、現今の教団に必要な教育とは何か。

 余輩の称して教育と為すものは所謂精神的教育にして、かの記誦詞章の学には非ざるなり、記誦詞章の学は死学のみ、死学は活ける知識を産し活ける道徳を生ずること能わざるなり
(岩波『清沢満之全集』第7巻 87頁)

 清沢の志願する教育は「精神的教育」であった。それは決して「記誦詞章の学」であってはならない。教授された言句を闇雲に暗記するような「記誦詞章の学」では、「活ける知識」「活ける道徳」を産出できず、もはや「死学」である。そして、この「精神的教育」のための学校を新築する際には、本山(東本願寺)のある京都よりも東京を優先すべきだと宣言される。その理由については、東京が「吾邦文化の中心」であり「社会の大勢」が最も早く現われる地であるとともに、「海外の事情」を観察するのに最も便利な場所であるためと言われる。
  また日誌によると、新法主等の上京を清川からの手紙(8月28日)で知った清沢は、その二日後に送った返信に、右の図を書き入れたという。
 ここに示されるのは、「宗義〔真宗の教義〕」を中心に、そこから「安心〔信心〕」「学説〔学問・解釈〕」が派生するという視座である。特に注目すべきは「普通的〔普遍的〕」で「一定不変」の「宗義」が「宗祖〔親鸞〕・本典〔『教行信証』〕」に依るのに対して、「発達進歩」のある「学説」は「宗徒〔宗学者〕・末書〔解釈書〕」に過ぎないという視点である。
 1897年10月、清沢は『教界時言』に「貫練会を論ず」という論説を発表する。貫練会とは、清沢たち革新勢力に対抗して結成された、江戸以来の「宗学」の伝統を師資相承する会である。この論説では、貫練会設立の趣意書から四つの問題点が挙げられ、そこに「宗義」と「宗学」を混同する謬見(びゅうけん)、それに起因する誤解、さらには「党同伐異の精神」を実行しようとする弊害があると厳しく批判される。(ここで言われる「宗学」は、上の図の「学説」と同意)この論説でも、「一定不易」の「宗義」は、「立教開宗の聖典たる広本六軸〔『教行信証』〕の中に在り」と断言される。それに対して「発達変遷」のある「宗学」は、「宗義を学問の方面より討究するもの」であり、解釈の深浅優劣にかかわらず、たとえ香月院深励や円乗院宣明などの「学轍」であっても「末学の私見」に過ぎないため、宗祖建立の「宗義」と混同してはならないと押さえられる。
 そして、これらの指摘は『臘扇記』中に描かれた上の図の視座と一致する。革新運動の際に発起した志願が、東京への想いと共に再燃したのである。そして、「一定不変」たる「宗義」を、一貫して宗祖親鸞と『教行信証』に依るべきだと断言している点は、清沢の学問の姿勢を考えるうえで見過ごしてはならないだろう。さらにもう一点、見過ごしてはならない事実がある。それは、清沢がエピクテタスの言葉に震撼したのも、同じくこの年の秋の東上を契機として起こった出来事であった。
(文中〔 〕は筆者註を表す)

※本報告の詳細は、論文として『現代と親鸞』第28号(2014年6月1日号)に掲載しています。

Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「『教行信証』と善導」研究会会 「三宝としてのサンガ論」研究会」研究会
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会近現代『教行信証』研究検証プロジェクト
親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス