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研究活動報告
清沢満之研究会
 親鸞仏教センターでは、清沢満之の思想の現代的意味を究明することを目的に、設立当初より一貫して「清沢満之研究会」を開催している。現在は、1898(明治31)年8月から翌年4月にかけて著された日記であり、同時に重厚な思索がつづられたノートでもある『臘扇記』をテキストに考究を進めている。今号では、2014年11月6日に杉本耕一氏(愛媛大学准教授)を迎えて開催した研究会における問題提起に基づき、清沢における「宗教」と「哲学」の関係を確かめたい。
清沢満之における「宗教」と「哲学」
 ―『臘扇記』を読む Vol. 2 ―


 親鸞仏教センター研究員   名和   達宣
■ はじめに
 清沢の思想をめぐって、現在、共通理解として伝播しているのは、その生涯を前期の「哲学期」と後期の「信仰期」に二分し、前期の哲学的理論がやがて後期の「精神主義」として熟成されるというものである。そのような見方は、晩年に雑誌『精神界』で発表された言説、とりわけ絶筆「我信念」において「私の信念の大要点」が「論理」や「研究」の挫折や否定をとおして語られていることに起因するだろう。
 ところが、前期・後期の転回点と位置づけられる『臘扇記』をひもとき、日々展開される思索を追ってみると、清沢における「哲学」と「宗教」の関係は、決して単純に二分化することはできないという事実にぶつかる。

■ 理論を潜った言説
 『臘扇記』のなかで最も有名な言葉として「自己トハ何ゾヤ、是レ人世ノ根本的問題ナリ」に始まる一連の断想(1898年10月24日)が挙げられるが、その直後には、ライプニッツの原子説(モナドロジー)やプラトンの理想説(イデア論)を踏まえつつ、きわめて理論的(哲学的)な思索をもってその自覚内容が確かめられ、そこから「実際」の問題の考察を経由して「信仰と修善の関係」が吟味されるに至る。
 それゆえ、晩年に提唱される「精神主義」において宗教の問題は、一見「理論」がしりぞけられ「実際」の方面が強調されるように映るが、その言説自体が厳密な「理論」の思索を潜(くぐ)って導き出されたものであるという事実を見過ごしてはならないだろう。
■ 杉本耕一氏による問題提起
  ― 有限/無限、哲学/宗教 ―

 近代日本の仏教思想と「哲学」――西田幾多郎をはじめとする京都学派と親鸞教学・禅思想――を研究課題とする杉本耕一氏を招いて開催した研究会では、氏より「清沢満之の『宗教』および『宗教哲学』における『哲学』の意味」をテーマにご講義いただいた。氏は初めに、清沢の「宗教哲学」は、焦点を当てる時期や解釈者の視点によって、「宗教」にも「哲学」にも引き付けて解釈されることがあるが、その立場は初期から晩年まで一貫して、徹底的に「哲学」的でありつつも、「宗教(信仰)」の立場から「哲学」の立場そのものを問い直そうとする動向を含むものであったという点を指摘された。具体的には、初期の『宗教哲学骸骨』(1892年)と、その三年後に執筆された「他力門哲学骸骨試稿」(1895年)を取り上げ、前者から後者への論展開について、「有限/無限」「哲学/宗教」の関係を中心に追求していかれた。
 とりわけ興味深かったのは、清沢がそれらの関係について、論じる立場の相違によって見方も変わってくるとする視座への着目である。すなわち、「無限を基想とする」立場から論じれば、「無限」はすべての「有限」をその内に包むものであるために両者は同体であり、それに対して「有限を基想とする」立場から論じれば、「有限」にとって「無限」はどこまでも達することのできないものであるために別体と言わざるをえない。この視座は「哲学」と「宗教」の問題にも密接に関係しており、「哲学」はあくまでも有限の立場に立つものであるが、その立場にとどまるかぎりは、自身が「有限」であるということについても究極的な答えとして決定することはできない。それは、「哲学」の立場では「有限」と「無限」との問題について、どこまでも最終的な答えを目指しつつも、理由の理由、そのまた理由へとさかのぼっていくばかりで、最後の結論にたどりつくことはできないためである。自身が有限であると決着し、その立場に立って実践に入っていくということは、有限な「哲学」を越えた立場――「無限」への視座が開かれたところで、初めて可能となるものでなければならない。このように、氏は「他力門哲学骸骨試稿」の視座に基づきながら、「哲学」と「宗教」との関係を吟味していく。
■ 信仰と修善の関係
 『臘扇記』に目を向けると、この視座は「信仰と修善の関係」の思索(1898年10月26日)として展開されている。そこで清沢は、自力の修善を勤めることが人間の条件であると言うが、それを完遂するのは不可能であるとし、ここにおいて「自力を捨てて他力に帰す」という信仰の必然性を明かす。そして、そこからさらに他力を信ずることによって(自力の)修善は任運に成就されるのかという問いを出し、それに対しては「決して然らず」と即答し、他力を信ずればますます修善を勤めずにはいられないという意欲(自然の意念)が湧(わ)き立つと述べる。しかし、修善を勤めようとすれば、再びもとの「自力的妄念」が紛起するのを感知し、これがかえって他力を信ずることの刺戟(しげき)となる。このように「信仰と修善」は交互に「刺戟策励」することによって、われわれの生涯を貫き有限から無限へと開発し続ける。そして、清沢はこの原動力をほかでもない「絶対無限なる妙用(みょうゆう)の然らしむる所」に見いだすのである。こうして清沢は「絶対無限」との対応関係において、初めて「修善」という実践に入っていく道――それを「修養」と呼ぶ――が開かれると述べている。
■ おわりに
 杉本氏の問題提起では、さらに清沢の思想の核心とも言うべき「転化」という視点が取り上げられ、それを「有限から無限への転化」、「無限から有限への転化」という二つの方向において、自らの立脚地とする西田哲学にも触れながらご指摘いただいた。そして、最後に「哲学」は「宗教」上の「実際の事実」――有限が無限に触れるという事態――の前では無力であるが、それにもかかわらず人間は「哲学」を求めざるをえず、そのような事実のなかで清沢が試みた「哲学」がいかなる意味での「哲学」であったのかということは、清沢の「宗教哲学」を理解するうえでの鍵となるであろうという問いを投げかけ、講義が締めくくられた。本研究会では、この「問い」を真摯(し)に受け止め、より精確にテキストを読解しつつ、清沢の思想の真髄を掘り起こしていきたいと考える。
(文責:親鸞仏教センター)

※ 杉本耕一氏の講義と質疑は、『現代と親鸞』第31号(2015年12月1日号)に掲載しています。

杉本   耕一(すぎもと   こういち) 愛媛大学法文学部准教授
 1977年愛知県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、関西大学非常勤講師、大阪教育大学非常勤講師等を経て、現職。
 著書に、『西田哲学と歴史的世界―宗教の問いへ』(京都大学学術出版会・2013年)。論文に、「明治日本における宗教哲学の形成と哲学者の宗教的関心―清沢満之を中心に」(『日本哲学史研究』第11号・2014年)
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