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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 煩(わずら)わしさから解放されて、こころ穏やかに生活したい。誰しも一度は、そう思ったことがあるだろう。 しかし、その煩わしいと感じる気持ちや不意に襲ってくる存在の不安を、ただグッとこらえて、日々営みを繰り返す。それが私たち一人ひとりの偽らざる日常ではないか。それは寂しさでもあり、痛みでもある。
それ、生死(しょうじ)をはなれ、仏道(ぶつどう)をならんとおもわんに、ふたつのみちあるべし (聖覚(せいかく)著『唯信鈔』『真宗聖典』九一六頁)
 いま、『唯信鈔』の冒頭に置かれたこの文(もん)が、そのやり切れない日常に重なってくる。いついかなる時代も、人は身をすり減らしながら懸命に生きている。その切実なる場において成り立たない仏道だとしたら、それは生きていくうえでただ邪魔なだけである。そこに、”阿弥陀”という言葉にまでなってはたらく如来が名告(なの)りでてくる。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 2 >> PDF版はこちら
原文
 「如来(にょらい)尊号(そんごう)甚分明(じんふんみょう) 十方世界(じっぽうせかい)普流行(ふるぎょう) 但有(たんう)称名(しょうみょう)皆得往(かいとくおう) 観音(かんのん)勢至(せいし)自来迎(じらいこう)」(五会法事讃(1))。
現代語訳
 「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(『五会法事讃』)。
 「如来(にょらい)尊号(そんごう)甚分明(じんふんみょう)」、このこころは、「如来(にょらい)」ともうすは、無碍光如来(むげこうにょらい)なり。「尊号」ともうすは、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)なり。「尊」は、とうとくすぐれたりとなり。「号」は、仏(ぶつ)になりたもうてのちの御(み)なをもうす。
 「如来尊号甚分明」という言葉の意味は、次のとおりである。「如来」というのは、無碍光如来(阿弥陀如来)のことである。「尊号」というのは、如来の名号である南無阿弥陀仏のことである。「尊」とは、尊くすぐれているということである。「号」とは、仏に成られた後の御名(みな)をいうのである。
 「名」(みょう)は、いまだ仏(ぶつ)になりたまわぬときの御(み)な(名)をもうすなり。この如来(にょらい)の尊号は、不可称・不可説(2)・不可思議にましまして、一切衆生(しゅじょう)をして無上大般涅槃(だいはつねはん)にいたらしめたまう、大慈(だいじ)大悲のちかいの御みな(名)なり。
 (ちなみに、名号の)「名」(みよう)とは、いまだ仏に成られていないときの御名をいうのである。この阿弥陀如来の尊号は、本当は言葉で言い表すことも、説き尽くすことも、われわれの考えで思い当てることも、到底できないものである。そして、それは生きとし生けるすべてのものを、このうえない本願のはたらきに導き入れる御名である。しかもそれは、限りない慈悲で、たすからない衆生をたすけずにはおかないという、誓いの御名である。
 この仏(ぶつ)の御(み)な(名)は、よろずの如来(にょらい)の名号(みょうごう)にすぐれたまえり。これすなわち誓願(せいがん)なるがゆえなり。「甚分明(じんふんみょう)」というは、「甚(じん)」は、はなはだという、すぐれたりというこころなり。「分(ふん)」は、わかつという、よろずの衆生ごとにとわかつこころなり。「明(みょう)」は、あきらかなりという、十方(じっぽう)一切衆生(しゅじょう)を、ことごとくたすけみちびきたまうこと、あきらかに、わかちすぐれたまえりとなり。
 この阿弥陀仏の御名は、他の一切の如来の名号をはるかに超えてすぐれている。なぜなら、その御名は、いのちあるすべてのものを救いとろうという、誓願そのものだからである。「甚分明」の「甚」は、”はなはだ”ということであり、”すぐれている”という意味である。「分」は、”分ける”という、つまり、あらゆる衆生一人ひとりに分け与えるという意味である。「明」は、”あきらかである”という意味である。つまり、「甚分明」というのは、あらゆる世界の生きとし生けるものを、決して漏らすことなく、たすけ導いてくださるということが明らかであり、ことのほかすぐれておいでになるということである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【『五会法事讃』】詳しくは、『浄土五会念仏略法事儀讃(じょうどごえねんぶつりゃくほうじぎさん)』という。唐の法照(ほっしょう)の撰(せん)。親鸞の主著、『教行信証』「行巻」に多く引用されている。この文は、『教行信証』「行巻」(『真宗聖典』一七九頁)、『唯信鈔』(同九一八頁)に引用される。
(2) 【不可称・不可説】『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』では、左訓(さくん)として「不可称」に「コトバモオヨバズトナリ」、「不可説」に「トキツクスベカラズトナリ」とある。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
「一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう」
現代語訳
  「生きとし生けるすべてのものを、このうえない本願のはたらきに導き入れる」
 「大般涅槃」とは、「すぐれた完全なさとりの境地」と、しばしば訳される。それは、修行によってもたらされる個人体験としての特殊な心理状態、というように了解されることがほとんどである。
 親鸞は、『教行信証』の中で第十一願「必至滅度(ひっしめつど)の願」を、「証大涅槃(しょうだいねはん)の願」(『真宗聖典』二八〇頁)と表現している。本願が一切衆生に与えようとする涅槃、それこそが親鸞のいただいた「大涅槃」である。それは、単に終着点ということではない。「涅槃に入る」ということは同時に、「はたらきだす」ということであり、その意味において、「涅槃」とはあらゆるものを生み出す起点でもある。「涅槃」に一切衆生を至らしめようというのが本願であり、至(いた)らしめてなお、衆生のうえにはたらき続けようとする「このうえない本願のはたらき」を、親鸞は「無上大般涅槃」と呼ぶのである。
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