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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 「浄土」と聞いて、多くの人は死後の世界としてこの言葉を理解するのではないだろうか。むしろ、死後の世界ということであれば、キリスト教の「天国」という言葉のほうが、現代においては馴染(なじ)むのかもしれない。宗教の違いはあっても、あえてそこに共通した概念を見いだすならば、それは未だ誰も見たことのない理想郷である、ということになるだろうか。
 しかし、親鸞の浄土観はそれとは異なるようだ。死といういのちの厳粛なる事実を希釈する、すなわち慰めの場所としてイメージされる「浄土」に対し、親鸞はもっと積極的な意味で<浄土>という言葉を使い、展開させてゆく。「大涅槃」と言い、「法性(ほっしょう)のみやこ」と言う、そこに一貫するのは現世をつらぬく《如来の大いなるはたらき》である。
 相対概念として語られる、浄土と穢土。しかし、それは別世界であって別世界ではない。穢土を包み込んで用はたらく<浄土>。その境は何かと言えば、穢土に執着してやまない自我心の“翻ひるがえり”である。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 6 >> PDF版はこちら
原文
 誓願(せいがん)真実の信心をえたるひとは、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の御(おん)ちかいにおさめとりて、まもらせたまうによりて、行人(ぎょうにん)のはからいにあらず。
現代語訳
 誓願のまことから生じた信心を得た人を誰一人漏(も)らすことなく救うという誓い、それにおさめとり、護ってくださる。これは、行為する人間の側のはからいによるものではない。
 金剛(こんごう)の信心をうるゆえに、憶念(おくねん)自然(じねん)なるなり。
 堅くて決して壊(こわ)れることのない信心をうるということは、憶念(おくねん)のこころが起こるということである。その憶念することも自然(じねん)である。
 この信心のおこることも、釈迦(しゃか)の慈父(じふ)、弥陀(みだ)の悲母(ひも)の方便(ほうべん)(1)によりて、おこるなり。
 この信心が起こることも、慈父のように教え導いてくださる釈尊、悲母のように包んでくださる阿弥陀の大いなるはたらきによるものである。
 これ自然(じねん)の利益(りやく)なりとしるべしとなり。
 これによって、信心が起こるということも自(おの)ずから与えられる結果である、と知ることができるということである。
 「来迎(らいこう)(2)」というは、「来」は、浄土(じょうど)へきたらしむという。
 「来迎」というのは、「来」は、浄土へ来させるということである。
 これすなわち若不生者(にゃくふしょうじゃ)のちかいをあらわす御(み)のりなり。
 これは、もしあらゆる人々が浄土に生まれることが出来ないならば、決して仏には成らないという阿弥陀如来の誓いをあらわすことばである。
 穢土(えど)をすてて、真実報土(しんじつほうど)にきたらしむとなり。すなわち他力(たりき)をあらわす御(み)ことなり。
 人間の迷いの世界を捨てさせ、如来の真実がはたらいている世界へ来させるということ、すなわち、本願他力をあらわしているのである。
 また「来」は、かえるという。かえるというは、願海(がんかい)にいりぬるによりて、かならず大涅槃(だいねはん)にいたるを、法性(ほっしょう)のみやこへかえるともうすなり。
 また「来」は、かえるということ、すなわち、本願の海に入ったならばどのような人々であろうとも、必ず、阿弥陀如来と同等の覚(さと)りの世界に至ることが出来る、それを「法性のみやこへかえる」というのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【方便】ここで言われる方便は「善巧(ぜんぎょう)方便」のことである。方便なくしては真実に触れることの出来ない我われに呼び掛けるために、言葉になったり形となって用(はた)らく。すなわち、形なきもの(真実そのもの)が形を通して呼び掛ける。それを善巧方便というのである。
(2) 【来迎】浄土を願う人の臨終に仏・菩薩が迎えに来ること。これが浄土教の伝統的来迎観であった。これに対し、親鸞は真実の信心の立場から、浄土から用(はた)らいて衆生を浄土へ来させる用らきとして、すなわち「如来の回向」として「来迎」の意味を捉え直している。
 それに関連することとして、親鸞は門弟に向けた手紙に、
来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし。いまだ、真実の信心をえざるがゆえなり。(中略)真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。(『末燈鈔』真宗聖典六〇〇頁)
と記し、来迎は自力の行者が願うことであるとしている。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 誓願(せいがん)真実の信心をえたるひとは、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の御(おん)ちかいにおさめとりて、まもらせたまうによりて、行人(ぎょうにん)のはからいにあらず。金剛(こんごう)の信心をうるゆえに、憶念(おくねん)自然(じねん)なるなり。
現代語訳
 誓願のまことから生じた信心を得た人を誰一人漏(も)らすことなく救うという誓い、それにおさめとり、護ってくださる。これは、行為する人間の側のはからいによるものではない。堅くて決して壊(こわ)れることのない信心をうるということは、憶念(おくねん)のこころが起こるということである。その憶念することも自然(じねん)である。
 原文によれば「誓願真実の信心をえたるひとは」というのだから、一見して主語は信心の行者であるかのように思われる。そのように読んだ場合、「金剛の信心をうる」ことも「憶念」ということも、その主語は当然、信心の行者となるだろう。しかし、原文ではこの後に、信心の起こる根拠として釈迦・弥陀を挙あげ、「これ自然の利益なりとしるべしとなり」と続いていく。すなわち、信心が起こることも、信心それ自体も、憶念することも、全て「自然の利益」だというのである。
 “行人のはからいにあらず”という言葉を大切にしながら、《一切の根拠は如来にある》という、これを如何に表現するかがこの現代語訳を行うポイントとなった。
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