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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 親鸞は常に、”信の一念”に立って仏道を語る。それは如来の回向によって恵まれる仏道である。しかし、一般的にイメージされるのは、時間経過のみならず空間的概念をも孕(はら)む、自助の精神に基づく仏道ではないだろうか。本文に沿って言うなら、「聞名念我(もんみょうねんが)」していればいずれ…、と普通は考えてしまう。したがって、「法性のみやこ」も実体的とならざるを得ない。
 「総迎来(そうこうらい)」の「迎」について親鸞は、「他力をあらわすこころなり」と明言する。しかし、「来」に関しては「かえる」「きたらしむ」という二つの意味・異なる方向性を与えている。それが一つの謎であり、議論の中心となった。
 親鸞が「来」の文字から読み取ったのは、自らの宗教的救いの内実ではなかったか。如来回向の用(はた)らきによって「聞名念我」する衆生にどのようなことが起こるのか、すなわち、迷いの世界から信心の世界へ帰すという意味内容を「来」の一字に見いだしたのではないだろうか。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 9 >> PDF版はこちら
原文
 「彼仏因中立弘誓(ひぶついんちゅうりゅうぐぜい) 聞名念我総迎来(もんみょうねんがそうこうらい) 不簡貧窮将富貴(ふけんびんぐしょうふき) 不簡下智与高才(ふけんげちよこうさい) 不簡多聞持浄戒(ふけんたもんじじょうかい) 不簡破戒罪根深(ふけんはかいざいこんじん) 但使回心多念仏(たんしえしんたねんぶつ) 能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)」(五会法事讃)。
現代語訳
 「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)。
 「彼仏因中立弘誓(ひぶついんちゅうりゅうぐぜい)」、このこころは、「彼」は、かのという。
 「彼仏因中立弘誓」という言葉の意味は次の通りである。「彼」とは、かのということである。
 「仏」は、阿弥陀仏(あみだぶつ)なり。「因中」は、法蔵菩薩(ぼさつ)ともうししときなり。
 「仏」とは、阿弥陀仏のことである。「因中」とは、阿弥陀仏に成る以前、法蔵菩薩と名告のられていた時のことである。
 「立弘誓(りゅうぐぜい)」は、「立」は、たつという、なるという。「弘」は、ひろしという、ひろまるという。「誓」は、ちかいというなり。
 「立弘誓」とは、「立」は、たてるということ、また、なるということである。「弘」は、ひろいということ、また、ひろまるということである。「誓」は、ちかいということである。
 法蔵比丘(びく)、超世(ちょうせ)無上のちかいをおこして、ひろくひろめたまうともうすなり。超世(ちょうせ)は、よ(余)の仏の御(おん)ちかいにすぐれたまえりとなり。超(ちょう)は、こえたりというは、うえなしともうすなり。
 法蔵という求道者が、超世無上の誓いをおこして、広くひろめてくださるというのである。超世とは、諸仏のお誓いよりも勝れているということである。超は、こえているということであり、この上ないということである。
 如来(にょらい)の、弘誓(ぐぜい)をおこしたまえるようは、この『唯信鈔(ゆいしんしょう)』にくわしくあらわれたり。
 阿弥陀仏が生きとし生けるすべてのものを救いたいという誓いをおこされたさまは、この『唯信鈔』に詳しくあらわされている。
 「聞名念我(もんみょうねんが)」というは、「聞(1)(もん)」は、きくという。信心をあらわす御(み)のりなり。「名(みょう)」は、御(み)なともうすなり。如来(にょらい)のちかいの名号(みょうごう)なり。
 「聞名念我」の「聞」は、きくという。それは本願の教えを聞き抜いて、自力を頼みにする疑いのこころが晴れていくこと、すなわち、信心をあらわす言葉である。「名」は、阿弥陀如来のみ名である。如来の誓いが衆生に呼びかけるために名となった名号である。
 「念我」ともうすは、ちかいのみなを憶念(おくねん)せよとなり。諸仏称名(しょうみょう)の悲願(2)にあらわせり。
 「念我」というのは、誓いのみ名を憶念せよということである。このことを諸仏称名の悲願として表しているのである。
 憶念(おくねん)は、信心をえたるひとは、うたがいなきゆえに、本願をつねにおもいいずるこころのたえぬをいうなり。
 憶念というのは、信心を獲得した人は疑いのこころがないので、本願が常に思い起こされて絶えないことをいうのである。
 「総迎来(そうこうらい)」というは、「総(そう)」は、ふさねてという、すべて、みなというこころなり。「迎(こう)」は、むかうるという、まつという。他力(たりき)をあらわすこころなり。「来」は、かえるという、きたらしむという。法性(ほっしょう)のみやこへ、むかえい(率)て、きたらしめ、かえらしむという。
 「総迎来」の「総」は、まとめてということ、すべて、みな、という意味である。「迎」は、むかえるということ、まちうけるという意味である。つまり、本願他力を表わしているのである。「来」は、かえるということ、こさせるという意味である。法性のみやこへ迎え導いて、来させ、帰らせるという。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【聞】「聞」について、親鸞は次のように記している。
 「『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰いうなり。」(『教行信証(信巻)』(『真宗聖典』二四〇頁))
(2) 【諸仏称名の悲願】『大無量寿経』に説かれる四十八願の中の第十七願、「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨し嗟しやして、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」(『真宗聖典』一八頁)を指す。親鸞においては、願文を番号で記すことは稀であり、御消息(門弟等に宛てた手紙)の類を除き、著作には殆ど願名で記す。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 「聞名念我」というは、「聞」は、きくという。信心をあらわす御のりなり。
現代語訳
 「聞名念我」の「聞」は、きくという。それは本願の教えを聞き抜いて、自力を頼みにする疑いのこころが晴れていくこと、すなわち、信心をあらわす言葉である。
 「聞く」ことは信心である。「聞く」ことが信心である。いずれにしても、「聞く」ことと「信心」が、すんなりと結びつくことはない。そこに省略されているであろうことをどのような言葉で補うのか、それが試訳のポイントとなった。
 親鸞が言う「聞」とは、一般的に考えられている「聞」ではない。たとえば、多くの経典が「我聞如是(もしくは如是我聞)」から始まることはよく知られているが、伝統教学においては、「我聞」は聞成就、「如是」は信成就を表わしているとして二つに分けて考えられている。この耳慣れない、特に「聞成就」という言葉に注意せしめられる。
 すなわち、親鸞の「聞」とは、教えを聞いても信心にならない、頷けないという、そういう状況を潜くぐった「聞」である。それは耳ではない、この身で聞くということ。それ故、親鸞において、「聞」とは信心をあらわす御のりなのである。
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