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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 「みずからがみ」ということが取り上げられている。「み」とは「身」のことである。本研究会では、前後の文章とのつながりを考慮した結果「自分自身」という試訳が施されることとなったのであるが、他の案も検討されて、それが意義深いものであった。
 例えば、「身を入れる」という表現がある。その場合の「身」とは、「こころ」「精神」をも含めた「身」ではないのか、というのである。善導大師が言うところの、

「自身はこれ現に罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)、曠劫(こうごう)よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(『歎異抄』・『真宗聖典』六四〇頁)

という、そういう「身」であると言うのである。親鸞の言う「みずからがみ」とは、自らの存在まるごとを指した言葉であり。「全存在」という意味ではないか、と。
 我われが普段頼みにしているわが身、わが心がどういうものであるのか…。
 「反省した自分を善しとする」「自己反省すら我執の中にある」「有限であることを忘れて…」。研究員の口からは、そんな言葉が漏れ聞こえてきたのだった。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 12 >> PDF版はこちら
原文
 「但使回心多念仏(たんしえしんたねんぶつ)」というは、「但使回心(たんしえしん)」は、ひとえに回心(えしん)せしめよということばなり。「回心(えしん)」というは、自力(じりき)の心(しん)をひるがえし、すつるをいうなり。
現代語訳
 「但使回心多念仏」の「但使回心」は、ただ如来のはたらきに帰して回心しなさいという言葉である。「回心」とは、自己を頼りにしている日ごろのこころを翻(ひるがえ)して、捨てることをいうのである。
 実報土(じつぽうど)にうまるるひとは、かならず金剛(こんごう)の信心のおこるを、「多念仏」ともうすなり。「多(た)」は、大(だい)のこころなり。勝(しよう)のこころなり。増上(ぞうじよう)のこころなり。大(だい)は、おおきなり。勝(しよう)は、すぐれたり。よろずの善にまされるとなり。増上(ぞうじよう)は、よろずのことにすぐれたるなり。これすなわち他力(たりき)本願無上のゆえなり。
 本願が用(はた)らく世界に生きる人には、必ず金剛のような信心が発起している。このことを、「多念仏」というのである。「多」は“大”であり、“勝”であり、また“増上”の意味である。“大”は、おおきい。“勝”は、すぐれている、つまりあらゆる善より勝れているということ。“増上”は、すべてにおいて勝れている、ということである。これらはすなわち、他力の本願がこの上ないことによるのである。
 自力(じりき)のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人(しようにん)、善悪凡夫(ぼんぶ)の、みずからがみ(身)をよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛(ぐばく)の凡愚(ぼんぐ)、屠沽(とこ)の下類(げるい)、無碍光仏(むげこうぶつ)の不可思議の本願、広大智慧(ちえ)の名号(みようごう)を信楽(しんぎよう)すれば、煩悩(ぼんのう)を具足しながら、無上大涅槃(だいねはん)にいたるなり。
 自力のこころを捨てるということは、種々さまざまな人びと、すなわち、どんなにすぐれた聖人であれ、どんなに愚かな凡人であれ、自分自身を善しとするこころを捨てて、わが身を頼みとせず、我が思いで自らを悪しとするこころにとらわれないということである。それによって、「具縛の凡愚」「屠沽の下類」は、ひとすじに、無碍光仏(阿弥陀如来)の不可思議の本願、広大なる智慧の名号を深く信じるならば、煩悩を離れられない身のままで、無上大涅槃、すなわちこの上ない本願の用らきを得るのである。
 具縛(ぐばく)は、よろずの煩悩(ぼんのう)にしばられたるわれらなり。煩(ぼん)は、みをわずらわす。悩(のう)は、こころをなやますという。屠(と)は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうし(猟師)というものなり。沽(こ)は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人(びと)なり。これらを下類(げるい)というなり。
 「具縛の凡愚」とは、あらゆる煩悩に縛られている我らのことである。「煩」は身をわずらわすということ、「悩」はこころをなやますということである。「屠」は、さまざまな生きものを殺し、切りさばくもののことで、猟師のことである。「沽」は、さまざまなものを売り買いするもののことで、商人のことである。これらを「下類」というのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』五五二〜五五三頁)
語注
(1)

【「多」は、大のこころなり。勝のこころなり。増上のこころなり。】龍樹は『十住毘婆沙論』(浄地品)の中で、「信力増上」に関して、「多」「勝」「大」という言葉を用いている。その文を親鸞は、『教行信証』「行巻」(『真宗聖典』一六四頁)に引く。

(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 但使回心多念仏(たんしえしんたねんぶつ)」というは、「但使回心(たんしえしん)」は、ひとえに回心(えしん)せしめよということばなり。
現代語訳
 「但使回心多念仏」 の「但使回心」は、ただ如来のはたらきに帰して回心しなさいという言葉である。
 
 「但使回心多念仏」、この言葉を親鸞は『行巻』(『教行信証』)にも引いている。すなわち、「ただ回心して多く念仏せしむれば」(『真宗聖典』一八一頁)の文である。それが、『唯信鈔文意』では「但使回心」「多念仏」とふたつに分けられて註釈されているのだが、これによって、“回心”という宗教体験に力点が置かれることになり、「多念仏」にあっては数の問題ではなく、信心を表す言葉として読まれている。先の「行巻」とは異なり、ここでは「信巻」の視点から解釈が試みられていることに注目させられる。
 「ひとえに回心せしめよ」。この“せしめよ”の試訳について、研究会では活発に意見が交わされた。そもそも、この言葉の分かりづらさは、「自力の心をひるがえし、すつる」のは衆生であるということと、そのかげには如来の用らきがあるのだということを、一語で言わんとしているところにある。例えば、「回心しなさい」「回心させなさい」ではその意を尽くしているとは言えないだろう。
 “せしめよ”がもつ隠れたニュアンスをも失わすことなく、なおかつ「但」の一字にある「このこと一つ」という力強さを込めて、この度の試訳となった。
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