親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 「りょうし・あき人」は「屠沽(とこ)の下類(げるい)」である、ということが前回記されている。当時、「りょうし・あき人」は蔑(さげす)まされる存在であったということが、そこから窺(うかが)い知れる。「いし・かわら・つぶて」と言われていることからもわかるとおり、それは取るに足らない“もの”ということのようである。
 それゆえ、しばしば社会階層論として読まれるのがこのたびの試訳箇所である。「りょうし・あき人」という言葉が、社会の底辺を生きるものの象徴として理解され、「いし・かわら・つぶて」という言葉は、時に差別に対抗する言葉として持ち出され、あるいは底辺を生きるものに共感するというかたちで差別意識を覆い隠す言葉として使われるのである。果たしてそうであろうか…。
 文中の「われら」とは、社会階層論を人間存在論へと転じさせる一語である。「われ」ばかりを声高に叫ぶ今の時代に、その一語はどう響くのだろうか。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 13 >> PDF版はこちら
原文
 能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)」というは、「能(のう)」は、よくという。「令(りょう)」は、せしむという。「瓦(が)」は、かわらという。「礫(りゃく)」は、つぶてという。「変成金(へんじょうこん)」は、「変成(へんじょう)」は、かえなすという。「金(こん)」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。
現代語訳
 「能令瓦礫変成金」の「能」は「よく」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「瓦」は「かわら」ということであり、「礫(つぶて)」は「石ころ」ということである。「変成金」の「変成」は「変えてしまう」ということであり、「金」は「こがね」ということである。瓦(かわら)・礫(つぶて)を黄金(こがね)に変えてしまうようである、というのは如来の本願力を喩(たと)えたものである。
 りょうし・あき人(びと)、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなる,錣譴蕕覆蝓G〕茵覆砲腓蕕ぁ砲慮罅覆ん)ちかいを、ふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取(せっしゅ)のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃(だいねはん)のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人(びと)などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取(せっしゅ)のひかりともうすは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の御(おん)こころにおさめとりたまうゆえなり
 猟師、商人といっても、それは他人事ではない。どんな人も、石・瓦・礫のごとき「我ら」なのだ。如来の誓いを疑いなく信じるならば、阿弥陀の摂取の光の中に救われ、摂(おさ)め取られ、必ず大涅槃の覚りを開かせてくださるのである。すなわち、猟師、商人などに大涅槃の覚(さと)りを開かせてくださるその様(さま)を、あたかも石・瓦・礫などを黄金へ変えてしまうようである、と喩えるのである。摂取の光というのは、阿弥陀如来の御心(おこころ)に我らを摂め取ってくださるから、そのように言われるのである。
 文(もん)のこころは、おもうほどはもうしあらわし候わねども、あらあらもうすなり。ふかきことは、これにておしはからせたまうべし。この文(もん)は、慈愍(じみん)三蔵ともうす聖人(しょうにん)の御釈(ごしゃく)なり。震旦(しんだん)には、恵日(えにち)三蔵ともうすなり。
 この(五会法事讃からの)文の意(こころ)を、ここでは十分に言い尽くすことはできないが、おおよそのことは申し上げたつもりである。深い意味は、以上申し上げたことから推し量って考えていただきたい。この文は慈愍三蔵という聖人の御解釈の言葉である。この方は、中国では、恵日三蔵と呼ばれている。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』五五三頁)
語注
(1)

【われら】この表現は、親鸞の著作全般に見ることができる。例えば、
「龍樹大士世にいでて 難行易行のみちおしえ 流転輪回のわれらをば 弘誓のふねにのせたまう」(「高僧和讃」『真宗聖典』四九〇頁)
「「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり。」(『尊号真像銘文』『同』五二一頁)
「「凡夫」は、すなわち、われらなり。」(『一念多念文意』『同』五四四頁)
「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて」(『歎異抄』『同』六二七頁)
 というものである。

(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 りょうし・あき人(びと)、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。
現代語訳
 猟師、商人といっても、それは他人事ではない。どんな人も、石・瓦・礫のごとき「我ら」なのだ。
 
 「りょうし・あき人」をもって象徴されているのは、助からない存在ということである。例えば、「殺生している自分は救われるんですか?」という切実な問いが、当時の「りょうし」という言葉には含まれていたのではないだろうか。そのように考えてみると、親鸞が「われらなり」と言い切られていることに、少なからずハッとさせられる。
 ここで注意すべきは、「われら」は「みんな一緒」という意味ではないということである。複数のニュアンスをもちつつ単数であることを表現できる言葉、それが「われ」でも「われわれ」でもない、「われら」である。
 また、「われら」とはうなずきの言葉でもある。助からない存在であるということが自身の内に見いだされて、初めて「われら」と言えるのである。すなわち、「われ」の自覚があって「われら」の世界が開かれてくる。語りかける相手を包みながら、人間存在の事実を訴え、目覚めを促し続ける言葉なのである。
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「三宝としてのサンガ論」研究会
「正信念仏偈」研究会源信『一乗要決』研究会聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
近現代『教行信証』研究検証プロジェクトインタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター[真宗大谷派]


親鸞仏教センターfacebook

〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
Tel.03-3814-4900 Fax.03-3814-4901
e-mail:shinran@higashihonganji.or.jp

※掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。