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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 “無明のまどい”。この試訳を検討する中で、「迷う」と「惑(まど)う」の語義に話が及んだ。「迷う」とは、行くべき道に迷うというように、どうすべきかの判断がつかない状態を表した言葉である。「あれか」「これか」「それとも…」、幾つもの選択肢を前にわれわれは迷う。
 これに対し「惑う」とは、まったくおもむきの異なる言葉のようだ。辞書の一節には、行動の伴った困惑した心理状態、とある。つまり、あれこれと試みたことすべてが私の思惑に外れ、どうしてよいかわからない。そこに「惑い」があるのだろう。それゆえ、「迷う」よりずっと根源的であり、散々失敗してきたものの心境が「惑い」と言えるかもしれない。
 「行に迷(まど)い信に惑(まど)い」、親鸞は主著『教行信証』の序文(『聖典』一四九頁)にこう記している。もはや万策尽き存在自体が所在無くなって…という、苦悩する姿がそこに垣間見えるようだ。しかし、この苦悩する心にこそ“如来の用(はた)らく場所”が見いだされてくる。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 14 >> PDF版はこちら
原文
 「極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい) 随縁雑善恐難生(ずいえんぞうぜんくなんしょう) 故使如来選要法(こしにょらいせんようほう) 教念弥陀専復専(きょうねんみだせんぷせん)」(法事讃)。「極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい)」というは、「極楽(ごくらく)」ともうすは、かの安楽浄土(あんらくじょうど)なり。よろずのたのしみつねにして、くるしみまじわらざるなり。かのくにをば安養(あんにょう)といえり。曇鸞和尚(どんらんかしょう)は、ほめたてまつりて安養ともうすとこそのたまえり。また『論』には、「蓮華蔵(れんげぞう)世界」ともいえり。無為(むい)ともいえり。
現代語訳
 「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃)。「極楽無為涅槃界」という言葉の意味は次の通りである。「極楽」というのは、阿弥陀如来の安楽浄土のことである。あらゆる楽しみが常に満ちていて、苦しみが少しもまざらない。その世界を安養というのである。心が安らぎ、身が養われるからである。だからこそ、曇鸞大師は「讃(ほ)め称(たた)えて安養という」とおっしゃったのである。『浄土論』では「蓮華蔵世界」ともいわれている。また、極楽は無為ともいわれている。
 「涅槃界(ねはんがい)」というは、無明(むみょう)のまどいをひるがえして、無上涅槃(ねはん)のさとりをひらくなり。「界」は、さかいという。さとりをひらくさかいなり。大涅槃(だいねはん)ともうすに、その名(な)無量なり。くわしくもうすにあたわず。おろおろ、その名をあらわすべし。「涅槃(ねはん)」をば、滅度(めつど)という、無為(むい)という、安楽(あんらく)という、常楽(じょうらく)という、実相という、法身(ほっしん)という、法性(ほっしょう)という、真如(しんにょ)という、一如(いちにょ)という、仏性(ぶっしょう)という。仏性(ぶっしょう)すなわち如来(にょらい)なり。この如来(にょらい)、微塵(みじん)世界にみちみちたまえり。
 「涅槃界」というのは、根本無明の惑いを翻(ひるがえ)して、この上ない涅槃の覚(さと)りを開くことである。「界」とは境であり、この上ない覚りを開く境界(きょうがい)である。大涅槃を表す言葉には数限りがない。したがって、つぶさに言うことはできないが、幾つかその名を挙げてみよう。「涅槃」を滅度という、無為という、安楽という、常楽という、実相という、法身という、法性という、真如という、一如という、仏性という。仏性は、すなわち如来である。この如来は、いついかなる所にも、今ここにも、余すところなく満ち満ちている。
 すなわち、 一切群生海(ぐんじょうかい)の心(しん)なり。この心(しん)に誓願(せいがん)を信楽(しんぎょう)するがゆえに、この信心すなわち仏性(ぶっしょう)なり。仏性(ぶっしょう)すなわち法性(ほっしょう)なり。法性(ほっしょう)すなわち法身(ほっしん)なり。法身(ほっしん)は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如(いちにょ)よりかたちをあらわして、方便法身(ほうべんほっしん)ともうす御(おん)すがたをしめして、法蔵比丘(びく)となのりたまいて、不可思議の大誓願(だいせいがん)をおこして、あらわれたまう御(おん)かたちをば、世親菩薩(せしんぼさつ)は、尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)となづけたてまつりたまえり。この如来(にょらい)を報身ともうす。誓願(せいがん)の業因(ごういん)にむくいたまえるゆえに、報身如来(にょらい)ともうすなり。報ともうすは、たねにむくいたるなり。
 つまり、如来は煩悩にまみれて苦悩する一切衆生の心である。生きとし生けるものをたすけんとして立ち上がってくるのが如来の誓願なのだから、この苦悩の心にそれを疑いなく深く信じ悦(よろこ)べば、この信心こそが仏性なのである。仏性とは、法性である。法性は法身である。法身は、色もなく形もない。だから、我われの思慮分別も及ばず、言葉で言い表すこともできない。この一如という、色も形もない真理そのものから<かたち>を現して、方便法身といわれるお姿を示し、法蔵比丘と名のられて、人智では到底はかれない大誓願をおこされた。その現れてくださったお姿を、世親菩薩は尽十方無碍光如来と名づけられたのである。この如来を報身と呼ぶ。誓願の因に報(こた)えて<かたち>となったのだから、報身如来と呼ぶのである。報というのは、因(たね)に報(こた)えるということなのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』五五三〜五五四頁)
語注
(1)

【一切群生海】例えば、『教行信証』には次のように記されている。
「一切の群生海(ぐんじょうかい)、無始よりこのかた乃至(ないし)今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄(しょうじょう)の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし。」(『真宗聖典』二二五頁)
「しかるに無始より已来(このかた)、一切群生海(いっさいぐんじょうかい)、無明海(むみょうかい)に流転し、諸有輪(しょうりん)に沈迷(ちんめい)し、衆苦輪(しゅくりん)に繫縛(けばく)せられて、清浄(しょうじょう)の信楽(しんぎょう)なし。法爾(ほうに)として真実の信楽(しんぎょう)なし。」(『同』二二七・八頁)
「しかるに微塵界(みじんかい)の有情(うじょう)、煩悩海(ぼんのうかい)に流転し、生死海(しょじかい)に漂没(ひょうもつ)して、真実の回向心なし、清浄(しょうじょう)の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海(ぐんじょうかい)を矜哀(こうあい)して、…。」(『同』二三二頁)

(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。
現代語訳
 この如来は、いついかなる所にも、今ここにも、余すところなく満ち満ちている。つまり、如来は煩悩にまみれて苦悩する一切衆生の心である。生きとし生けるものをたすけんとして立ち上がってくるのが如来の誓願なのだから、この苦悩の心にそれを疑いなく深く信じ悦(よろこ)べば、この信心こそが仏性なのである。
 
 微塵世界に満ち満ちている「如来」。それが「すなわち、一切群生海の心である」とは一体どういうことなのか?それは取りも直さず、「一切衆生悉有仏性」ということがどこで言えるのかという、大乗仏教の問題でもある。
 語註を参考にすれば、「一切群生海の心」自身は煩悩海に他ならない。どこまでいっても「たすからない衆生の心」、それが人間の分限である。
 しかし、どれだけ苦悩の、煩悩の生活をしていようと、そこを“場所”として如来が用(はた)らいてくる。どうにも救い難いというところをもって、如来が立ち上がってくるのである。そのためには心が本願を信ずるという、つまり回向の信心を通して如来が用らくのである。すなわち、私の中に起こる心であるけれども、それが如来回向の信心だからこそ「一切衆生悉有仏性」という事実がここにある、と親鸞は言うのである。
 煩悩の心に本願の用らきを信ずれば、その煩悩の心が“本願の用らく場所”になる。この重層的構造をいかに表現していくのか、議論が重ねられた。
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