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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 「五濁(ごじょく)悪時・悪世界・悪衆生…」という文は、元は中国・善導大師の言葉に拠(よ)るものである。この文は『教行信証』に引文され(『真宗聖典』三四九頁)、また、同様の表現が他にも多数散見されることから、親鸞聖人がこの言葉をいかに大切にされていたかが窺(うかが)える。
 この後に続く「邪見無信」について、研究会で交わされた意見は、私自身非常に考えさせられるものだった。すなわち、「邪見」とは「邪(よこしま)な見かた」であり、自我を中心として“正しくものが見られない”ということ。「無信」とは、信じたいけれども信ずるものがないということで、ニヒリスティックな現在(いま)の時代状況に重なってくるというのである。
 その「五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものに」釈迦は、あらゆる善の中から弥陀の名号ひとつを選び、与えたのだ、と親鸞は言う。何よりそれは、成仏道を求めた先達、善導の“うなずき”であった。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 15 >> PDF版はこちら
原文
 この報身より、応化(おうけ)等の無量無数(むしゅ)の身(しん)をあらわして、微塵(みじん)世界に無碍(むげ)の智慧光(ちえこう)をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光仏(じんじっぽうむげこうぶつ)ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明(むみょう)のやみをはらい、悪業(あくごう)にさえられず。このゆえに、無碍光(むげこう)ともうすなり。無碍(むげ)は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀仏(あみだぶつ)は、光明(こうみょう)なり。光明(こうみょう)は、智慧(ちえ)のかたちなりとしるべし。
現代語訳
 この報身から、量りきれない、数えきれないほど多くの応・化身を現していかなる世界にも隅々まで行き渡り、何ものにも妨げられることのない、智慧の光を放ってくださる。だから、この報身如来は尽十方無碍光仏という光である。形もなく、色もない。人間の存在自体が宿す無明の闇を払って、われわれが無始以来積み重ねてきた悪業にも障(さ)えられることがない。ゆえに、無碍光というのである。無碍とは、妨げがないということである。そうであるから、阿弥陀仏は光明であり、光明は智慧のすがたであると知るべきである。
 「随縁雑善恐難生(ずいえんぞうぜんくなんしょう)」というは、「随縁(ずいえん)」は、衆生(しゅじょう)のおのおのの縁(えん)にしたがいて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修(しゅ)するを、極楽(ごくらく)に回向(えこう)するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力(じりき)の善根(ぜんごん)なるゆえに、実報土(じっぽうど)にはうまれずと、きらわるるゆえに、「恐難生(くなんしょう)」といえり。「恐(く)」は、おそるという。
 「随縁雑善恐難生」という言葉の意味は次のとおりである。「随縁」というのは、衆生がそれぞれの縁に随(したが)い、それぞれの心のままに、自分から修めるさまざまな善行の功徳を、極楽に生まれるための功徳に転換することである。つまり、それは八万四千の法門のことである。これらはすべて、有限なる自分の力をたよりとする、自力の善を勧めるものである。それゆえに、大慈悲の平等の真実報土には生まれないと阿弥陀仏は選び捨てられるから、「恐難生」というのである。「恐」は、おそれるということである。
 真(しん)の報土(ほうど)に、雑善(ぞうぜん)・自力(じりき)の善うまるということを、おそるるなり。「難生(なんしょう)」は、うまれがたしとなり。「故使如来選要法(こしにょらいせんようほう)」というは、釈迦如来(しゃかにょらい)、よろずの善のなかより名号(みょうごう)をえらびとりて、五濁(ごじょく)悪時・悪世界・悪衆生・邪見(じゃけん)無信のものに、あたえたまえるなりとしるべしとなり。これを「選」という。ひろくえらぶというなり。「要」は、もっぱらという、もとむという、ちぎるというなり。「法」は、名号(みょうごう)なり。
 真実報土には、諸々の善、自力の善行をもってしては生まれない。それにもかかわらず、自力の善で生まれるなどという考えがおこることをおそれるのである。「難生」とは、生まれることができないということである。「故使如来選要法」というのは、仏法を疑い誹謗する者が増え、悪事がはびこる五濁の世であるから、悪を重ねずには生きられず、いつまでも自我にとらわれてまことの依り処を見いだせないわれらすべてのものに、釈迦如来が、あらゆる善の中から本願の名号ひとつを選び取って与えてくださったと知るべきである、ということである。これを「選」という。多くの中から選ぶという意味である。「要」は、専らということ、求めるということ、誓うということである。「法」とは、名号のことである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』五五四・五頁)
語注
(1)

【応身】釈迦仏を中心とする、衆生救済のためにこの世に現われ、身体をもって仏法を教えてくださる仏。

(2) 【化身】本来は無色・無形の真理そのものである仏が、人々を教化するために、法身(ほっしん)や応身(おうじん)以外の姿をとって仮に形を現したもの。
※親鸞は、「仏について四種あり」と『愚禿鈔』(聖典四二八頁)に記す。すなわち、法身・報身(ほうじん)・応身・化身(けしん)である。例えば、師である法然を詠(よ)んだ和讃に次のものがある。
 「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまう」(聖典四九八頁)
 「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ 化縁(けえん)すでにつきぬれば 浄土にかえりたまいにき」(聖典四九九頁)
(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 「恐」は、おそるという。真の報土に、雑善・自力の善うまるということを、おそるるなり。「難生」は、うまれがたしとなり。
現代語訳
 「恐」は、おそれるということである。真実報土には、諸々の善、自力の善行をもってしては生まれない。それにもかかわらず、自力の善で生まれるなどという考えがおこることをおそれるのである。「難生」とは、生まれることが出来ないということである。
 
 「極楽無為涅槃界」に始まるこの文は、『教行信証』の「真仏土巻」「化身土巻」(『聖典』三二一、三五〇頁)に引文されている。すなわち、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生まれがたし。」という文である。この「恐」の文字について、親鸞は「おそらく」という推量の意味ではなく、「おそれる」という意味だと解釈する。このことで、人間の分限が明確になっている。
 そもそも「隋縁」について親鸞は、それは「それぞれの縁に随い、それぞれの心のままに、自分から修めるさまざまな善行の功徳」を極楽に回向するという考え方であると押さえ、それでは極楽に絶対に生まれられないのだという。だから、もしそのような自力善で生まれるなどということが起こったら、それは恐ろしいことだというのである。
 ところで、「難」の文字を親鸞が使う場合、「可能性がない」という意味で使われることがほとんどである。この度もその用例に従って、試訳したことである。
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