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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 時折、「信心深くないもので…」と謙遜(けんそん)される方にお会いすることがある。しかし、そのような、いわゆる世間一般で考えられている信心と親鸞が明らかにしようとした〈信心〉とはまったくの別物である。
 「善信(親鸞)が信心も、聖人(法然)の御(ご)信心もひとつなり」(『歎異抄』聖典六三九頁)。大勢の法然門下のなかにあって、善信のこの大胆な発言は大変な物議をかもしたようである。智慧才覚ひろしと尊崇されていた師、法然である。その法然の信心と、若輩で一弟子に過ぎない善信の信心が一緒であると言うのだから、兄弟子たちが怒るのも無理はない。しかし、能力・経験の延長線上に信心を見ていくというこの考え方は、現代にもよく馴染(なじ)むのではないだろうか。
 だが、〈信心〉とは自分で起こす心ではない。善信には、信心などとても起こせないわが身であるという根源的自覚があったのだろう。それは仏道を歩もうとする者、すなわち人生をまっとうしようとする者にとっては絶望であり、大きな悲しみであったに違いない。
 悲しみ…。そこに親鸞と法然を支えたひとつの大地があり、〈信心〉の源泉があったのではないか。願作仏心(がんさぶっしん)、度衆生心(どしゅじょうしん)ということをも展望する、それは〈横超(おうちょう)の信心〉である。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 16 >> PDF版はこちら
原文
 「教念弥陀専復専(きょうねんみだせんぷせん)というは、「教」は、おしうという、のりという。釈尊の教勅(きょうちょく)なり。「念」は、心(しん)におもいさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなわち選択(せんじゃく)本願の名号(みょうごう)を一向専修(せんじゅ)なれと、おしえたまう御(み)ことなり。「専復専(せんぷせん)」というは、はじめの「専」は、一行(いちぎょう)を修(しゅ)すべしとなり。「復(ふ)」は、またという、かさぬという。しかれば、また「専」というは、一心なれとなり。一行(いちぎょう)一心をもっぱらなれとなり。「専」は、一(いち)ということばなり。もっぱらというは、ふたごころなかれとなり。ともかくもうつるこころなきを「専」というなり。この一行(いちぎょう)一心なるひとを摂取(せっしゅ)してすてたまわざれば、阿弥陀(あみだ)となづけたてまつると、光明寺(こうみょうじ)の和尚(かしょう)は、のたまえり。
現代語訳
 教念弥陀専復専」という言葉の意味は次の通りである。「教」というのは、教えるということ、法則ということである。すなわち、釈尊の至上の仰せである。「念」は、心に思い定めて、あれこれと動じないというこころである。すなわち、本願に選び取られた名号をただひたすらに修めよと教えてくださる、釈尊の御言葉である。「専復専」というのは、初めの「専」は、ひとつの行を修めよということである。「復」は、またということ、重ねるということである。その次の「専」というのは、一心であれということである。つまり、もっぱら一行一心であれということなのである。「専」は、一という意味である。もっぱらとは、二心があってはならないということである。あれこれと心が移り変わらないことを「専」というのである。この一行一心の人を摂め取って捨てることがないから阿弥陀と名づけるのである、と光明寺の善導和尚はおっしゃっている。
 この一心は、横超(おうちょう)の信心なり。横(おう)は、よこさまという。超(ちょう)は、こえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに、とく生死海(しょうじかい)をこえて、仏果にいたるがゆえに、超(ちょう)ともうすなり。これすなわち大悲誓願力(せいがんりき)なるがゆえなり。この信心は、摂取(せっしゅ)のゆえに金剛心(こんごうしん)となれり。これは『大経(だいきょう)』の本願の三信心なり。この真実信心を、世親菩薩(せしんぼさつ)は、願作仏心(がんさぶっしん)とのたまえり。この信楽(しんぎょう)は、仏(ぶつ)にならんとねがうともうすこころなり。この願作仏心(がんさぶっしん)は、すなわち度衆生心(どしゅじょうしん)なり。この度衆生心ともうすは、すなわち衆生をして生死(しょうじ)の大海(たいかい)をわたすこころなり。この信楽(しんぎょう)は、衆生をして無上涅槃(ねはん)にいたらしむる心(しん)なり。この心(しん)すなわち大菩提心(だいぼだいしん)なり。大慈(だいじ)大悲心なり。この信心すなわち仏性(ぶっしょう)なり。すなわち如来(にょらい)なり。
 この一心は、横超の信心である。横は、よこさまにということ、超は、こえてということである。あらゆる教法にまさって、速やかに、ただちに迷いの海を超えて、仏果に至るのだから、「超」というのである。これが成り立つのは、大悲の誓願のはたらきだからである。この横超の信心は、如来に摂め取られているのだから、金剛のごとく堅固(けんご)な心となっているのである。これは、『大無量寿経』に説かれている本願の三信心、すなわち至心・信楽・欲生の心である。この真実の信心を、世親菩薩は「願作仏心」といわれている。この信心は、仏に成ろうと願う心である。「願作仏心」とは、すなわち「度衆生心」である。「度衆生心」とは、衆生をして迷いの大海をわたらしめる心である。この信心は、すべてのものを無上涅槃に至らせる心である。この心は大いなる菩提心であり、大いなる慈悲心である。この信心は仏性である。すなわち、如来である。
 
 この信心をうるを慶喜(きょうき)というなり。慶喜(きょうき)するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。慶(きょう)は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。喜は、こころのうちに、よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。うべきことをえてのちに、みにも、こころにも、よろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華(ふんだりけ)」(観経)とのたまえり。この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には「極難信法(ごくなんしんほう)」とのたまえり。しかれば『大経(だいきょう)』には「若聞斯経(にゃくもんしきょう) 信楽受持(しんぎょうじゅじ) 難中之難(なんちゅうしなん) 無過此難(むかしなん)」とおしえたまえり。この文(もん)のこころは、「もしこの『経』をききて、信ずること、かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」とのたまえる御(み)のりなり。    この信心をうることを「慶喜」というのである。慶喜する人を「諸仏と等しい人」と名づけるのである。「慶」は、よろこぶということ。信心をえて後によろこぶのである。「喜」は、心によろこびが絶えることなく、常にあるということである。人間として獲得すべきことを得て身も心もよろこぶ、という意味である。信心を獲得した人を『観無量寿経』では「分陀利華」(白蓮華)といい、この信心を獲得しがたいことを『称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)』では「極難信法」と説いている。それを、『大無量寿経』では「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」と教えてくださっているのである。この文意は、「たとえこの『経』を聞いても、それを信ずることは難しい中でも特に難しい。これ以上に難しいことはない。」というみ教えである。
 釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)は、五濁悪世(ごじょくあくせ)にいでて、この難信(なんしん)の法を行(ぎょう)じて、無上涅槃(ねはん)にいたると、ときたまう。さてこの智慧(ちえ)の名号(みょうごう)を、濁悪(じょくあく)の衆生にあたえたまうとのたまえり。十方(じっぽう)諸仏の証誠(しょうじょう)、恒沙如来(ごうじゃにょらい)の護念、ひとえに真実信心のひとのためなり。釈迦(しゃか)は慈父(じふ)、弥陀(みだ)は悲母(ひも)なり。われらがちち・はは、種種の方便(ほうべん)をして、無上の信心をひらきおこしたまえるなりと、しるべしとなり。おおよそ過去久遠(くおん)に、三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏のよにいでたまいしみもとにして、自力(じりき)の菩提心(ぼだいしん)をおこしき。恒沙(ごうじゃ)の善根(ぜんごん)を修(しゅ)せしによりて、いま願力(がんりき)にもうあうことをえたり。他力(たりき)の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余(よ)の善根(ぜんごん)をそしり、余(よ)の仏聖(ぶっしょう)をいやしゅうすることなかれとなり。
 釈迦牟尼如来は、悪事がはびこる五濁の世に現われて、この信じ難い法を行じて無上涅槃の覚(さと)りに至る、と説いてくださった。そして、智慧そのものであるこの名号を、濁悪の衆生、つまり悪を重ねずには生きられず、まことの依り処を見いだせないわれらに与えるのだ、と説かれているのである。あらゆる世界の諸仏がこの名号を真実であると証明されるのも、またそれを、数限りない如来が念じ護(まも)ってくださるのも、ひとえに真実信心の人のためなのである。釈迦如来はわれわれを慈(いつく)しむ父であり、弥陀如来は憐れんでやまない母である。われらの父母(ちちはは)が、さまざまな手だてをもって、われらに無上の信心を開き発(おこ)してくださるのである、と知るべきだというのである。久遠の昔より、無数の諸仏方が世に現われてきた。その仏のみもとで私たちは、そのつど自力の菩提心をおこし、数限りない善を修めてきた。しかし、いま如来の本願力に遇(あ)いがたくして遇うことができたのである。阿弥陀如来のはたらきによって信心(至心・信楽・欲生)を得た人は、念仏以外の修善を謗(そし)ったり、その他の仏や聖人たちを決して卑(いや)しめてはならない、というのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』五五五〜五五六頁)
(訳:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 横(おう)は、よこさまという。超(ちょう)は、こえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに、とく生死海(しょうじかい)をこえて、仏果にいたるがゆえに、超(ちょう)ともうすなり。これすなわち大悲誓願力(だいひせいがんりき)なるがゆえなり。
現代語訳
 横は、よこさまにということ、超は、こえてということである。あらゆる教法にまさって、速やかに、ただちに迷いの海を超えて、仏果に至るのだから、「超」というのである。これが成り立つのは、大悲の誓願のはたらきだからである。
 
 私たちが捨てきれないものに“比較心”がある。だから、「よろずの法にすぐれて」といわれれば、どうしても「比較して勝って」という思考回路がはたらいてしまう。例えば、それは『愚禿鈔』においては「竪(しゅ)」といわれ、文字通り物事を“縦型”に考え見ていこうとする、すなわち努力のうえに成り立つあり方である。ゆえに、数値化もできるし、世間的見地からすれば至極真っ当うなあり方と言えるだろう。
 それに対し親鸞は、「横」という概念を提示する。「よこさま」という、それこそ世間的には「間違っている」「正しくない」という意味合いの言葉を用いて、自らが立った仏道を逆説的に説いていくのである。具体的には、「竪」に立ち上がれないような人間が助かるというような意味で、「この愚かな人間に相応しく」という意味で、「よろずの法にすぐれて」というのである。つまり、比較を超えているということ、無上上ということ。「南無阿弥陀仏」の救い、その質の違いが「横」という一文字に凝集されている。
 また、「仏果に至る」と表現されているところに、人間が求めて至らなければいけない究極の果、そこに一挙に至るという、時間をはさまないという親鸞の仏道感覚が研究会で確認された。
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