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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 「あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進(しょうじん)なるすがたをしめすことなかれとなり。」と親鸞は言う。なぜならば、「内懐虚仮(ないえこけ)」だからである、と。
 そもそも、その元となった「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」とは、中国の善導大師(六一三―六八一)の言葉である。この文を親鸞は、独自に読み替えた。すなわち、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」という、仏の浄土に行きたいのなら内外の二面性・裏表があってはならないと読むべき文を、親鸞は人間のありのままの姿を凝視して、わが身の事実に立って読み替え、冒頭のように了解されたのである。
 「しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。……懈怠のこころのみにして、……まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。」
 親鸞が発したこの言葉の先には、「さあ、あなたはどうする?」という響きがある。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 17 >> PDF版はこちら
原文
 「具三心者(ぐさんじんしゃ) 必生彼国(ひっしょうひこく)」(観経)というは、三心(さんじん)を具すれば、かならずかのくににうまるとなり。しかれば善導は、「具此三心(ぐしさんじん) 必得往生也(ひっとくおうじょうや) 若少一心(にゃくしょういっしん) 即不得生(そくふとくしょう)」(往生礼讃)とのたまえり。「具此三心(ぐしさんじん)」というは、みつの心(しん)を具すべしとなり。「必得往生(ひっとくおうじょう)」というは、「必」は、かならずという。「得」は、うるという。うるというは、往生をうるとなり。「若少一心(にゃくしょういっしん)」というは、「若(にゃく)」は、もしという、ごとしという。「少」は、かくるという、すくなしという。一心かけぬればうまれずというなり。一心かくるというは、信心のかくるなり。信心かくというは、本願真実の三信(さんしん)のかくるなり。
現代語訳
 「具三心者 必生彼国」(『観無量寿経』)というのは、三心(さんじん)を具(そな)えるならば必ず、阿弥陀の浄土に生まれるということである。そうであるから、善導大師は「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(『往生礼讃』)と言われたのである。「具此三心」というのは、三つの心を具えなければならないということである。「必得往生」の「必」は、かならずということ、「得」は、うるということである。うるというのは、往生を得るということである。「若少一心」の「若」は、もしということ、ごとしということである。「少」は、欠けているということ、すくないということである。一心を欠いてしまっては、浄土へは生まれないというのである。一心が欠けているというのは、信心が欠けているということである。信心が欠けるというのは、本願に誓われた真実の三信(三信心)が欠けているということである。
 『観経(かんぎょう)』の三心(さんじん)をえてのちに、『大経(だいきょう)』の三信心をうるを、一心をうるとはもうすなり。このゆえに『大経(だいきょう)』の三信心をえざるをば、一心かくるともうすなり。この一心かけぬれば、真の報土にうまれずというなり。『観経(かんぎょう)』の三心(さんじん)は、定散(じょうさん)二機の心(しん)なり。定散(じょうさん)二善を回(え)して、『大経(だいきょう)』の三信(さんしん)をえんとねがう方便(ほうべん)の深心(じんしん)と至誠心(しじょうしん)としるべし。真実の三信心をえざれば「即不得生(そくふとくしょう)」というなり。「即(そく)」は、すなわちという。「不得生(ふとくしょう)」というは、うまるることをえずというなり。三信かけぬるゆえに、すなわち報土にうまれずとなり。
 『観無量寿経』に説かれている三心、すなわち至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・回向発願心(えこうほつがんしん)を翻(ひるがえ)して、至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)という、『大無量寿経』に説かれる三信心をうることを、一心をうるというのである。このようなわけで、『大無量寿経』の三信心をえていないことを、一心が欠けているというのである。この一心を欠いてしまっては、真の報土には生まれないというのである。『観無量寿経』に説かれている三心とは、定善(心静かに精神を集中して浄土を観察すること)と散善(さまざまな行為としての善行をつとめること)を行う人の心である。この定・散二善を回(めぐ)らし向けて、ついには『大無量寿経』の三信を得ようと願わせるために手だてとして示された、深心と至誠心であると知らなければならない。真実の三信心を得ていないから「即不得生」というのである。「即」は、すなわちということ。「不得生」は、生まれることができないということである。三信が欠けてしまっているがゆえに、真実の報土には(即座には)生まれないというのである。
 
 雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)して定機(じょうき)散機の人、他力(たりき)の信心かけたるゆえに、多生曠劫(たしょうこうごう)をへて、他力(たりき)の一心をえてのちにうまるべきゆえに、すなわちうまれずというなり。もし胎生辺地(たいしょうへんじ)にうまれても、五百歳(さい)をへ、あるいは億千万衆の中に、ときにまれに一人(いちにん)、真の報土にはすすむとみえたり。三信(さんしん)をえんことを、よくよくこころえねがうべきなり。    自力のこころが雑(ま)ざった行をさまざまに修めて浄土に往生しようとする、定善・散善のひとは、他力の信心がないのだから、生死の迷いから抜け出すことができないままに、はるかに永い時を流転しなければならない。他力の一心を得て、初めて生まれることができるのだから、「即座には生まれない」というのである。もし、方便化土である胎生辺地に生まれたとしても、五百年もの時を経て、あるいは億千万の人々のなかで、ごくまれに一人くらいしか真実の報土にはすすめないようである。真実の三信心をえるということを、よくよく心得て、ねがうべきである。
 「不得外現(ふとくげげん) 賢善精進之相(げんぜんしょうじんしそう)」(散善義)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進(しょうじん)なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮(ないえこけ)なればなり。内(ない)は、うちという。こころのうちに煩悩(ぼんのう)を具せるゆえに、虚(こ)なり、仮(け))なり。虚(こ)は、むなしくして実(じつ)ならぬなり。仮(け)は、かりにして、真(しん)ならぬなり。このこころは、かみにあらわせり。この信心は、まことの浄土(じょうど)のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつらわず、実報土(じっぽうど)のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人(けんじん)にもあらず。賢人(けんじん)というは、かしこくよきひとなり。精進(しょうじん)なるこころもなし。懈怠(けだい)のこころのみにして、うちは、むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。「斟酌(しんしゃく)すべし」(唯信鈔)というは、ことのありさまにしたごうて、はからうべしということばなり。
 「不得外現 賢善精進之相」(『観経疏』散善義)というのは、外面に、賢い振る舞い、善人の素振りをしてはならない、いかにも仏道に努め励んでいるような姿を示してはならないというのである。何故ならば、「内懐虚仮」(内面には虚仮をいだいている)だからである。内は、うちということである。こころのうちに煩悩をもっているのだから、虚であり、仮なのである。虚は、むなしく、実(じつ)ではないということである。仮は、かりであり、真(しん)ではないということである。この意味は、この書の冒頭に述べたとおりである。(冒頭で述べた)真実信心は、真の浄土の種となり、実となる。偽(いつわ)ったり、諂(へつら)ったりすることなく、真実の報土の種となる信心なのである。こういうわけで、私たちは善人でも、賢人でもないのである。賢人というのは、立派で善い人のことである。私たちには、努め励むこころもない。怠けごころだけで、事実、こころの内は、虚(むな)しく、偽り、飾り、諂(へつら)うこころだけが常にあって、真(まこと)の心がない身であると知りなさいというのである。「斟酌すべし」(『唯信鈔』)というのは、わが身の現実に照らして、よくよく考えなさいという言葉である。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』五五六〜五五八頁)
(訳:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 一心かくるというは、信心のかくるなり。信心かくというは、本願真実の三信(さんしん)のかくるなり。『観経(かんぎょう)』の三心(さんじん)をえてのちに、『大経(だいきょう)』の三信心をうるを、一心をうるとはもうすなり。このゆえに『大経(だいきょう)』の三信心をえざるをば、一心かくるともうすなり。
現代語訳
 一心が欠けているというのは、信心が欠けているということである。信心が欠けるというのは、本願に誓われた真実の三信(三信心)が欠けているということである。『観無量寿経』に説かれている三心、すなわち至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・回向発願心(えこうほつがんしん)を翻して、至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)という、『大無量寿経』に説かれる三信心をうることを、一心をうるというのである。このようなわけで、『大無量寿経』の三信心をえていないことを、一心が欠けているというのである。
 
 一心が欠けているとは、信心が欠けているということ。それは、本願に誓われた真実の三信心が欠けているということである。一心をうることは、真の報土に生まれるための絶対条件である。
 では、一心をうるとはどういうことだろうか?その内実を親鸞は、「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうる」と教えている。しかし、それは段階的にということではない。『観経』の三心について詠(よ)まれた和讃を見てみよう。

  定散諸機格別の
   自力の三心(さんじん)ひるがえし
   如来利他の信心に
   通入せんとねがうべし   (『真宗聖典』四八六頁)

『観経』の三心とは自力の三心である、というのが親鸞の理解である。一方、『大経』の三信心は、利他の三心である。「えてのちに……」とは、はじめはそういう執着、自力のこころだったけれども、それが翻(ひるがえ)されて如来利他の信心を得るという意味である。自力のこころから真実の信心への転回が語られているのである。
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