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研究活動報告
『教行信証』真仏土・化身土巻研究会
 親鸞仏教センターでは2010年6月より新たに『教行信証』真仏土・化身土巻研究会を発足し、2011年1月現在、これまでに7回の研究会が開かれている。なお、『教行信証』の原文をテキストとして取り扱う研究会は、親鸞仏教センターでは初となる。研究会の特徴としては、特に引文における乃至箇所(=親鸞が敢えて文を出していない箇所)や、読み替え(=本来の漢文からは普通読みにくい親鸞独自の読み方)に注目し、そこから親鸞の意図を読み取ることを試みている。今回は、第1回目の研究会から、「真仏土巻」冒頭の御自釈における「無量寿」と「無量光」の関係性、そして「無量光明土」の意義について報告したい。
無 量 光 明 土

親鸞仏教センター研究員 花園 一実

■ 無量寿と無量光の関係性
  「真仏土巻」には標挙(ひょうこ)として「光明無量」と「寿命無量」の二願が掲げられている。しかし、「真仏土巻」冒頭の御自釈(ごじしゃく)をみると、「不可思議如来」「無量光明土」と、光明ばかりが前面に出されており、阿弥陀如来の寿命的側面について積極的に語られる箇所は少ない。
 そもそも中国浄土教の伝統においては、本来、寿命が重視されてきた傾向がある。それは、梵語 Sukhāvatīvyūha(極楽の荘厳)という経題を『無量寿経』と翻訳したことや、道綽が『安楽集』第九大門において、「寿命長短」の問題を取り上げていることなどからも窺(うかが)える。また寿命の延長という命題は、中国人のもっていた一つのロマンであった。たとえば中国で作られた多くの疑偽経典群は、当時の中国民衆の宗教観を表すものとして重要であるが、その内容には『延命十句観音経』などの経題に示されるように、寿命の延長というテーマがしばしば込められていた。また曇鸞が仏教を学びながらも(曇鸞は当時『大集経』の註釈をしていたとされている)、自らが病に罹(かか)ったときには、陶弘景(とうこうけい)のもとに長生不死の仙経を求めていったことも、中国の文化風土に深く根付いていた、道教的思想の影響を思わせる。

一方、親鸞はこの「寿命無量」と「光明無量」の関係について、次のように述べている。
「真実信心うる人は すなわち定聚(じょうじゅ)のかずの〔に〕入(い)る 不退(ふたい)の位(くらい)に入りぬれば かならず滅度(めつど)をさとらしむ」(大経讃)と候うは、この度(たび)この身の終わり候わん時、真実信心の行者(ぎょうじゃ)の心、報土(ほうど)にいたり候いなば、寿命無量を体(たい)として、光明無量の徳用(とくゆう)はなれたまわざれば、如来の心光(しんこう)に一味なり、このゆえ「大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり、仏性はすなわち如来なり」(涅槃経)と仰(おお)せられて候うやらん。(『真宗聖典』583頁、東本願寺出版部)

 このように、寿命無量は如来の体であり、光明無量はそのはたらきであるというのが親鸞の領解であった。言い換えれば寿命とは、光明というはたらきが生み出される本質としての無量寿であり、その意味において、道教的、世俗的寿命観とはまったくその質を異にするものである。言うなれば「長生き」ではなく「永遠」の象徴としての無量寿であると言える。親鸞が、敢えて寿命について言及せず、光明を前面に押し出したのは、そのような道教的関心から距離をおくという一面があったと考えられるかもしれない。

■ 無量光明土の意義について

 「真仏土巻」の冒頭の引文群に引かれている、『平等覚経』「東方偈(往勤偈)」を見てみたい。

速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養す。(『真宗聖教全書』一・100頁)

 親鸞はここで冒頭の御自釈にある「無量光明土」という語の典拠をここで確認していると思われる。この文に注目したのは安田理深(『教行信証真仏土巻聴記』82頁、文栄堂)であった。安田は、本来この原文の文脈で読むのならば、阿弥陀仏国=無量光明土とは読めない、と指摘する。無量光明土とは、本来は十方諸仏の浄土を表す言葉であって、始めから阿弥陀仏国を意味するものではない。安楽国(阿弥陀仏の浄土)に至ってから、無量の(諸仏の)光明土に至って無数の仏を供養する、というのがより自然な解釈である。しかし親鸞は、この経文の精神を徹底し、安楽国に無量光明土の徳をおさめたのである。その根拠を安田は『浄土論』および『論註』に確認している。『浄土論』『論註』には阿弥陀仏の浄土の菩薩のもつ功徳として、「不動遍至」「同時遍至」「無余供養」「遍示三宝」という四種の徳が挙げられている。(『真宗聖教全書』一・334〜336頁)これをいま端的にいえば「浄土の菩薩とは、身を一切動かすことなく、あらゆる世界に示現し、仏事をなすのであり(「不動遍至」)、しかもそれは前後なく同時に行われる(「同時遍至」)。そしてその供養は、徹底して一世界を余すことなく行われ(「無余供養」)、それはたとえ三宝なき場所においても例外ではない(「遍示三宝」)。」これがいわゆる菩薩の四種功徳である。このことよりみれば、阿弥陀仏国とは、西方世界の一仏土でありながら、そのはたらきは一切世界、無量の光明土に徹底しているといえる。『浄土論』『論註』を通すことで、諸仏の浄土は弥陀の浄土のなかにおさめられるのである。このことを踏まえたうえで、親鸞は真仏土を「無量光明土」として表現する。それは一切世界を包んだ、普遍的な真理の世界である。

 このように親鸞は浄土ないし如来を、偶像や観念としてではなく、「光如来」「光明土」と、人智を絶した「光明」として表現する。そして恐らくこれは当時において、かなり特色のある説ではなかっただろうか。当時、一般的に仏身については、『観無量寿経』に説かれている「真身観」の仏身や、浄土については『大経』『観経』『往生要集』などに説かれる浄土の相などがよく知られていたと思われる。それはすぐれた相好と、金色の身から光明を放ち、諸仏菩薩を従えて念仏行者を摂取するという阿弥陀仏のイメージや、七重の欄楯(らんじゅん)、行樹(ぎょうじゅ)に取り囲まれ、美しい八功徳水の宝池を湛(たた)え、七宝で荘厳されたきらびやか楼閣などがある、極楽浄土のイメージである。それに対し、親鸞は前述のとおり、具体的表象を一切加えず、浄土も仏も、ただ光明として表現するのみである。そこには、空想的な表象をしりぞける事によって、純粋な真理の展開として、浄土教を大乗仏教のなかに位置づけようとする思想的動機があったと考えられる。およそ親鸞ほど光明にこだわった僧は他に例がない。「光明は智慧のかたち」(『真宗聖典』554頁)であると親鸞は言うが、どこまでも衆生を救わんと願ってやまない、慈悲に裏付けられた仏教の智慧が、阿弥陀仏とその浄土として、凡夫のうえに展開する。このことを、顕(あらわ)そうとするのが「真仏土巻」の大きな意義ではなかっただろうか。このような視点をもちながら、今後も研究を続けていきたい。

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