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研究活動報告
『教行信証』真仏土・化身土巻研究会
 『教行信証』「真仏土巻」は、その半分に近い分量が『涅槃経』の引用文によって構成されている。ゆえに、この巻を親鸞の思想にかなったものとして読み解いていくためには、『涅槃経』のもっている課題性を、その歴史的背景も含めて了解していくということが必要不可欠である。このような問題意識のもと、研究活動の一環として、2010年12月24日、東京ガーデンパレス(文京区)において、大谷大学教授の織田顕祐先生をお迎えして、「大乗『涅槃経』の思想と『教行信証』」という講題でお話をいただいた。織田先生は、主に中国仏教を専門にされており、2010年度の真宗大谷派安居では『涅槃経』をテキストに次講を務められている。研究会では、『涅槃経』の成立と構造、一闡提(いっせんだい)と仏性の関係性などについてお話いただいた。ここにその一部を紹介する。
大乗『涅槃経』の思想と『教行信証』

親鸞仏教センター研究員 花園 一実

■ 『涅槃経』の成立と構造
  『涅槃経』には、人間としての釈尊の最後を記録した阿含経典の『涅槃経』と、釈尊が亡くなられるという場面を借りて、そもそも仏というものは本質的に生滅するものではない、ということを説いた大乗『涅槃経』の二つの系統がある。その大乗の『涅槃経』について、今私たちが『涅槃経』と呼んでいるものには三つある。まず、法顕の訳した六巻の『泥洹(ないおん)経』。これは最も古くに漢訳されたもので、その後の『涅槃経』のコアにあたる。次に南北朝の時代、北の地において曇無讖(どんむしん)によって翻訳された四十巻の北本『涅槃経』。そして、その後南朝において『泥洹経』と北本『涅槃経』を照合し、整理する形で作られた、三十六巻の南本『涅槃経』がある。親鸞はこの中で、南本と北本を『教行信証』において引用されている。
 『涅槃経』は曇無讖によって、どうやら三回に分けて翻訳されていると考えられる。翻訳の度に経典が成長し、言葉が増え、思想が深まっていった形跡が見受けられるからである。前半十巻を初分、中盤の十巻を中分、そして最後の二十巻を後分と、分けて考えてみると、『涅槃経』という経典は理解しやすい。前半で提起された問題が、中盤でまた展開し、そして後半でさらにまた展開するという、三重構造になっているからである。それまで『維摩経』『般若経』などの初期大乗経典によって提起されてきた、法身(ほっしん)・摩訶般若(まかはんにゃ)・解脱(げだつ)という三つの課題が、大般(だいはつ)涅槃の内容として重なり合い、螺旋状にグルグルと巡るように問題が展開していく。『涅槃経』とは、このような構造をもった経典なのである。

■ 仏性とは何か

 大乗仏教における如来という存在は、「如来常住無有変易(へんやく)」と言われるように、本質的に移り変わるものではなく、永遠の法身と呼べるものである。この法身における不生不滅の永遠性を『涅槃経』では「如来性(にょらいしょう)」と呼ぶ。三重構造をもつ『涅槃経』の前半部分では、この如来性という問題が中心に取り上げられており、やがてその概念は、経典における思想の深まりに伴い、「仏性」という言葉へと展開していくのである。
 「一切衆生に悉(ことごと)く仏性あり(一切衆生悉有(しつう)仏性)」という仏性の問題、これは例えば「オタマジャクシはなぜカエルになるのか」という話で説明することができる。オタマジャクシとカエルは、一見すると別々のようである。しかしオタマジャクシは、カエルになるという一貫した性質をもっているのであり、オタマジャクシが犬や猫になるということはあり得ない。一見、まったく別のもののように思えるが、しかし本当に別なものであったらそうはなれないという関係がある。同じではないが別でもない、この関係を「不二」といい、またそこに貫いている、決して変わらない性質を「性」と呼ぶのである。そして仏教の智慧の立場から眺められる時、衆生と仏の関係においても、この一貫した変わらない性質というものが見えてくる。そこに「オタマジャクシにおいてカエルを見る」ということが成り立ってくるのであり、それが衆生において仏性を見るということなのである。

■ 一闡提と仏性

 しかし、このような一貫性、つまり「常住」なるものを認めていく思想は、『涅槃経』が説かれる以前の立場、つまり仏教は無常・無我を説く教えであり、変わらないものは何一つないと考える伝統教学の立場からは、到底認めることのできない説であった。ゆえに『涅槃経』において初めて説かれた、如来や涅槃が「常楽我浄」であるとする大乗仏教の思想は、本来の仏の教えに背くものであるという反論が、当然のように出てくるのである。そのように「如来常住」「衆生仏性」などの、大乗の思想を否定する立場のことを、『涅槃経』では「一闡提」と定義していた。これが一番始めの一闡提の意味である。
 やがて、この問題が三重構造をもった『涅槃経』という経典の中で展開し、深められていくことで、「善友に近づかない」「因果を見ない」など、一闡提の定義も細分化されていくこととなる。そして、後半の「徳王品」になると、「なぜ一闡提は仏性を見ることができないのか」という、「仏性を見ない」という問題へと展開し、一闡提を巡って同時に仏性の問題も深められていくのである。そしてこの展開の中で、一闡提の者が仏性を見ることができない原因として、それは菩提心を発(おこ)す因縁を欠いているからだと言われてくる。ここに、一般的に一闡提のものとして解釈される、「断善根」「信不具足」などの意味が生まれてくるのである。断善根などの単語を聞くと、仏に成る因縁が完全に断たれてしまっていて、二度と生じてこないというニュアンスを受けてしまう。しかし、そもそも仏性が有るか無いか、生ずるか生じないかという問題は、本質的に一闡提と関係がない。一闡提の問題とは、もともと「悉有仏性」と如来が言われている、その真理を見ようとしないことに全て起因しているからである。仏性は無為法(むいほう)であり、因縁に関係なく常に真理として有り続ける。それを見るか、見ないかというところに一闡提という問題の本質があるのである。
 『涅槃経』におけるこの仏性と一闡提のように、思想というものには必ず生まれるべき必然性がある。私たちはこの必然性としての思想背景をよく理解せずに、先入観によって本来の意味を曲げて了解してしまっていることが、多々あるのではないだろうか。今回の研究会を通して感じたのは「でどころ」に触れることの大切さである。そして親鸞が「真仏土」として私たちに示そうとされていることも、私たちの先入観を離れた、この「でどころ」としての真実報土の世界なのである。

※織田顕祐氏の講義と質疑は、『現代と親鸞』第23号(2011年12月1日号)に掲載しています。





織田顕祐(おだ あきひろ) 大谷大学文学部教授
1954年愛知県生まれ、1977年大谷大学文学部仏教学科卒業、1979年大谷大学大学院文学研究科修士課程修了、1984年大谷大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。2007年大谷大学文学部教授。専門は東アジア仏教思想史研究、中国日本華厳教学研究、漢訳大乗経典研究。
著書に『初期華厳思想史』(韓国、仏教時代社)、『ブッダと親鸞−教えに生きる』(共著、東本願寺出版部)、『浄土論註講義十』(奥羽教区教学研究室)、『大般涅槃経序説』(東本願寺出版部)など。

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