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研究活動報告
『教行信証』真仏土・化身土巻研究会
 『教行信証』真仏土・化身土巻研究会では、2012年3月1日、東京国際フォーラム(千代田区) において大阪大学名誉教授である大峯顯氏をお迎えし、「末法の時代における真理とは」というテーマで研究会を開催した。研究会では、親鸞が末法という時代をどのように捉えていたのか、そもそも末法とは私たちにとってどのような時代なのか、ということについてお話をいただいた。ここにその内容の一部を紹介したい。
末法の時代における真理とは

親鸞仏教センター研究員 花園 一実

■ 親鸞における末法観の特徴
  平安末期から鎌倉時代にかけて、末法という言葉そのものは日本の仏教界に広く浸透していましたが、それはあくまで経典に説かれてある知識としての末法でした。法然を批判した明恵も、親鸞の得度受式の先生である慈円も、『正法眼蔵』を著した道元も、みな戒を正しく守っていた人でしたから、そういう人たちにとっては、どこかに自分は正法を歩んでいるという自信があったのではないでしょうか。彼らにとって末法は、ある経典に言われている一つの考え方であって、真理ではないと受け取られていた。しかし、親鸞だけがそれを自分の正体として受け取られていた。末法的存在こそが自分の正体だと。この歴史観は歴史学者の対象としてあるヒストリー(history)ではなく、ハイデガーがゲシヒテ(Geschichte)と言っているような内容だと思います。それは私がそのなかに生きて死ぬ世界としての歴史です。年表的なヒストリーの世界では、私たちは生まれもしなければ死にもしない。他人事なのです。親鸞が末法ということを自覚しているのは、そういうヒストリーとしてではなく、自分の自覚のなかに歴史が入っている。この歴史的自覚でなければ仏法を、本当の自己を知ることはできない。あらゆる仏教者のなかで、そういう視点が最もはっきり出されていたのが親鸞ではないかと思います。
 例えば、ロケットは空中から発射することができません。月という高いところへ行くためには、私たちがいるこの地上からしか飛んで行けないのです。永遠の真理を目指すといっても、その出発点はこの時間のなかを生きている自己でなければならない。親鸞という人は、仏法の真理をどこで掴むかというとき、それはやはり自分の現実というものの自覚を離れて、仏法の真理など掴めないという、そういう自覚をもっていたのだと思います。

■ 末法に開かれる新しい仏法との関係

 末法というのは教えだけがあって行も証もない時代です。しかし、特に証がないということは、やはり教えがないのと同じではないでしょうか。誰も救うことができない仏法など、あってもなくても同じなのでしょう。そうすると末法の時代とは、人間を救うはずの仏法が本来の機能を発揮できなくなった時代なのです。かつてニーチェは「神は死んだ」と言いました。われわれは死んだ神の死体の臭いを嗅いでいると。しかし、そういう時代こそが本当の真理を新しく発見する絶好の時代なのだとニーチェは言うのです。神を殺さないことには本当の世界に出られない。真理が消えてしまったという経験を通さないことには、本当の真理との関係は出てこない。そこは親鸞とよく似ていると思います。末法という仏の救済力が及ばなくなった時代にわれわれは生きている。しかし、そのことをはっきり自覚するということは、そこに新しい仏法との関係が生まれるということです。
 浄土真宗は、真理がいったん消えたところから出てきた真理です。それは連続していません。お釈迦さまの教えに両方あって、自力門はだめになったけれど他力門は大丈夫だと、それくらいに受け取られやすいですが、そうではない。いったん仏教は消えてしまった。太陽は沈んでしまった。太陽が沈むというのは釈尊が涅槃に入ったということですが、太陽は沈んでもまだ西側は明るい。残光が残っている。この残光が残っている時代が正法、像法です。末法ではその残光も消えて、真っ暗になってしまった。しかし、その暗闇のなかから月が昇ってきた。新しい光が昇ってきた。従来の仏教は消えてしまったけれど、そのことが新しい仏教の始まりだという、そういう考え方が親鸞聖人にはあったと思います。

■ 末法は人間の現実態

 自力聖道門では仏に成れるものが仏に成る。ところが阿弥陀の救済は逆説で、救われないものを救うのです。救われるものだけを救うのなら、それは仏ではない。しかし思うに、人間というのはいつの時代においても救われない存在なのではないでしょうか。
 末法は仏教が衰退してくる時代であると言われていますが、それはわれわれの生きている世界のありのままの姿が生に露出してきたということです。現実というものが、今までよくわからなかった。しかし、今こそ露出したと。平安時代までの仏教者は夢を見ていた。例えば源信によって臨終の来迎往生が説かれていますが、それはやはり非現実的、つまり人間の現実というものに適していないのだと思います。臨終に救われるという考え方は非力な仏教で、われわれの現実というのはもっと過酷で容赦がない。例えば交通事故に遭えば臨終正念などないでしょう。人間というのは、いつも行き詰まりなのであって、この頃行き詰まってきたということではない。初めから末法的存在だと思うのです。末法的存在であるのに、修行によって助かるのではないかと、自分の現実に対してどこか幻想をもっていた。ところが、そういう幻想は続かない。幻想がだんだんと剥(は)がれてきて、どうしようもなくなった。そこに初めからそうであった人間の姿がはっきり現れてきたのが、末法ということだろうと思います。初めはよかった人間が、だんだんおかしくなったのが末法だというのは、自力聖道門がまだ生き残っているからです。誰もが本当は如来の本願によってしか助からないはずなのです。そういうところから捉え直さないと、末法は他人事になってしまうのではないかと思います。

※大峯顕氏の講義と質疑は、『現代と親鸞』第25号(2012年12月1日号)に掲載しています。





大峯顕(おおみね あきら) 大阪大学名誉教授・俳人
1929年生まれ。1953年京都大学文学部宗教学科卒業、1959年同大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。専攻は宗教哲学。京都大学文学部助手、大阪外国語大学助教授を経て、1971年から1972年まで文部省在外研究員としてハイデルベルク大学留学。帰国後、大阪外国語大学教授、大阪大学教授、龍谷大学教授を経て、2000年浄土真宗教学研究所所長。現在大阪大学名誉教授、浄土真宗教学伝道研究センター顧問。
また、俳人でもあり俳誌「晨」主宰。2002年、句集「宇宙塵」で第42回俳人協会賞受賞。2011年、句集「群生海」で第52回毎日芸術賞、第26回詩歌文学館賞受賞。
著書に『歴史の底から―正像末和讚を読む〈上〉』、『招喚する真理―正像末和讃を読む〈下〉』、『君自身に還れ―知と信を巡る対話』(以上、本願寺出版社)、『宗教の授業』、『永遠なるもの―歴史と自然の根底』、『哲学の仕事部屋から 花月のコスモロジー』(以上、法蔵館)、共著に、『妙好人 良寛・一茶(浄土仏教の思想)』(講談社)、『京都哲学撰書』(灯影舎)など多数。

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