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研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
現代語化に先立って

親鸞仏教センター研究員 内記 洸

 当センターではこれまで、聖典の試訳と題して聖教を現代語で表現することを試みてきた。『歎異抄』、『唯信鈔文意』に続いて、この度、新たに2011年6月から始まったのは『尊号真像銘文』の現代語化をめざす研究会である。今回は、研究会の具体的な報告に先立ち、その初回において確認された、当研究会が目指す方向性についての報告である。

■ 『尊号真像銘文』とは
 『尊号真像銘文』とは、当時、本尊として掲げられていた「名号」(=尊号)や諸師方の肖像画(=真像)に付された讃嘆の文を、親鸞聖人がかな文字によって平易に説き示したものである。伝えられているものには、巻末に「愚禿親鸞八十三歳 書写之」という記載がある「略本」と、「愚禿親鸞八十六歳 書之」と記されている「広本」とがあるが、前者から後者にかけては取り上げられている「銘文」の数が大幅に増加している。『大無量寿経』の第十八願文の引用から始まり、七祖や聖徳太子の銘文を経て、聖人自身の「正信偈」の文の説明で結ばれている本書は、形式は異なれども同じく晩年に著された「和讃」や「正信偈」に通じるものがある。
 この『尊号真像銘文』はまた、漢字ではなくかなによって書されているため、「仮名聖教」とも呼ばれている。この「仮名聖教」と言われるものには、他に『一念多念文意』や『唯信鈔文意』が伝えられているが、この両著の末尾には、共に「いなかのひとびと」についての言葉が添えられている。いわく、「いなかのひとびとの、文字(もんじ)のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり」(『真宗聖典』559頁、東本願寺出版部〈以下『聖典』と略記〉)。つまり、『尊号真像銘文』を含む「仮名聖教」とは、漢字で伝えられてきた古今の経・論・釈の文を関東の門弟たちに易しく説き伝えるための書である、と一応は考えてよいであろう。

■ 読む、ということ

 では、親鸞聖人が本書において「とりかえしとりかえし」伝えようとしているものは何であったのか。本研究会に限らず、テキストの読解や訳文の作成ということにおいては、客観的に見て正しい理解、了解というものが求められるのが普通である。一定の「枠」を押さえることのない、単に恣意(しい)的な理解では了解を共有することができない。ただし、釈尊に始まる仏教が示し、「真宗」という言葉を掲げた聖人が語ったのは、単に「正しいこと」である以上に、何よりまず私たちの一人ひとりが生きるうえでの「大切なこと」であると言うべきではないか。宗教や哲学と呼ばれるものも、何も私たちの日常からは遠く離れた理想や空想を語っているわけではない。私たち自身の日常を振り返ってみれば十分わかるように、人が最も関心をもち熱意をもって語るのは、当人にとって抜き差しのならない問題、大切な事柄を中心点とした、極めて具体的な、日常に密着した問題であるはずである。“宗教として”語られていることと、一人ひとりにとっての大切な問題、つまり今、目の前に具体的な生活としてある問題とはこの意味では本来ひとつである。
 このことはまた、私たちが読み手となるときにも当てはまる。伝えられている「大切なこと」とはいったい何なのか、と問うとき、受け手となる私たち自身もまた、その「大切なこと」をめぐっての同質の実感の中にいるのでなければ、そもそもその「大切なこと」を語り手と同じところで実感することはできないであろう。「聖教」というものを考えてみても、私たちがそれを“どのように”受け取っているかによって、それが本当に「聖教」であるのか、それともどこにでもあるような他の書物と変わらないものであるのか、その文章の意味がまったく違ってくる。聖人が語る「大切なこと」に向かい合うということは、自ら同質の「大切なこと」をもって向かい合うのである。

■ 現代語にするということ

 したがって、「大切な言葉」を読むということは、自身の生活上、最も具体的な実感をもって、つまり最も具体的な「自身の言葉」において読むということに他ならない。かつて「聖典の試訳『歎異抄』」の研究会が始まったとき、高史明氏から、「現代語訳『歎異抄』ではなく、現代語『歎異抄』をつくってください」という言葉をいただいたと聞いているが、それはまさしく、『歎異抄』という“聖教”を単に現代的な言葉に移し替えるのではなく、現代という時代を生きる──あるいはどこまでも、現代という時代においてしか生きることのできない──自分自身の言葉において、『歎異抄』が語る「大切なこと」を受け取っていってほしい、との願いであったのではないか。「言葉」という容器を現代風に取り替えようというのではなく、聖人の言葉の容器に満たされた「中身」を、もう一度自分たちの言葉の容器で汲みとらなければならない。このように考えるならば、当センターの設立以来続いてきた「聖典の試訳現代語」研究会の試みとは、現代人にとってわかりやすい表現を提供しようという特殊な翻訳事業なのではなく、第一に、「大切なこととは何か」ということを自らの切実な問題として受け止め、自身の言葉に置き換える、という当たり前の営みに他ならない。
 『歎異抄』が唯円が親鸞聖人から受け取った「大切なこと」であったのと同様に、『銘文』は聖人自身が受け取った「大切なこと」である。先に「いなかのひとびと」への聖人の言葉を紹介したが、法然上人から「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」(『聖典』603頁)と聞き、和讃において「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」(『聖典』511頁)と語る聖人にとって、仮名聖教における「いなかのひとびと」への言葉というのが他人事であろうはずがない。その「大切なこと」を、私たちははたしてどのようにして受け取り、表現しうるであろうか。「正しい表現」、「正しい翻訳」を求めようとするのではなく、「大切なこととは何であるのか」ということを自らの実感として受け取ろうとする過程なしにそれらの聖教を“正しく”表現することは不可能なのではないか、というのが今現在の実感である。研究会という場においては、聖人の語る言葉の意味、位置について教えてもらうことばかりであるが、『尊号真像銘文』で聖人は何を語ろうとしているのか、そのことをめぐる研究員一人ひとりの受け取りをきちんと確認しながら、自分自身の言葉(ただしそれは「自分だけの言葉」ではない)で『尊号真像銘文』を組み立て直す機会と考えたい。それが伝わるかどうかの問題は、また別の問題であろうと思う。

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