親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 聖典の試訳:『尊号真像銘文』研究会
研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
 現代的な感覚からするとなかなか想像しづらいが、この『尊号真像銘文』が書かれた当時、大多数の人々は「文字」を読むことも書くこともできなかったという。それはつまり、いくら親鸞が難解なお経の言葉を「かな」に表現し直そうとも、それが民衆の心にきちんと伝わるかどうかはまったく別の問題だったということである。それは民衆の日々の「ことば」に重なり、融(と)け込むものでなければならなかった。したがって、この「第十八願の銘文」で、ただ「如来の誓いが真実である」ということと「その真実の誓いを信じなさい」ということが何度も何度も“繰り返して”語られているのは、偶然ではないのである。
 「真実」や「信」といった言葉を聞くと、数年前の「今年一年の世相を表す漢字」に「偽」という文字が選ばれていたことを思い出す。世相としても私たちは今、「信じる」ことすらままならない身を生きている。しかし、親鸞によれば、「如来」は、もとよりそのままならない身の事実も含めて「信じなさい」と呼びかけてきているという。「信じること」の純粋さと「信じられない」という不純粋さは、読み書きが十分浸透していなかった昔の時代であろうと、逆に言葉と記号の海で溺(おぼ)れかけている現代であろうと、何一つとして変わらないのである。違うのは、知識の量が相対的に激増したぶん、「自分を超えたもの」に対する関わり方――「信じる」ということ自体――が実感しづらくなってきているということだろうか。 (研究員 内記 洸)
『尊号真像銘文』試訳 2 >> PDF版はこちら

現代語
 「信楽」というのも、自分自身の心を清く正しく保って、信じることができるよう努力しなさい、などと言っているのではありません。私たちに向けられた如来の願いが真実であるという、そのことひとつに、ああ、そのとおりだなあと、ただただ深くうなずける心のことを「信楽」と言うのです。つまり、ここで「至心信楽」と言われているのは、如来の誓いとしてある「至心信楽」なのです。私たちの誰に対してもわけへだてなく、「真実である、私のこの『誓願』を深く信じなさい」と勧めてくださっている如来の心ひとつを、その誓いのままに信じる。それは、私たち自身の内にある自己中心的な心、いつも知らず知らずのうちに自分で自分を肯定してしまっているような心ではなく、むしろ逆に、私たちの心のそうした不純粋さを照らし出すような、如来の心なのです。
 「欲生我国」というのは、如来から差し向けられている、この真実の「至心信楽」の心をいただくことにおいて、「私の『国』に生まれようと思いなさい」、と言うのです。誰もがみんな一緒に、と呼びかけられた世界に生きようというのですから、それは、「私」というモノサシによって切り分けられた孤独な世界ではなく、自分の存在があらゆるいのちと共通の大地に意味づけられているという、限りない喜びに開かれた世界なのです。

訳:親鸞仏教センター

原 文
 信楽(しんぎょう)というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽(しんぎょう)ともうすなり。この至心信楽(ししんしんぎょう)は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願(せいがん)を信楽(しんぎょう)すべしとすすめたまえる御(おん)ちかいの至心(ししん)信楽(しんぎょう)なり。凡夫自力のこころにはあらず。
 「欲生我国(よくしょうがこく)」というは、他力の至心信楽(ししんしんぎょう)のこころをもって、安楽浄土(あんらくじょうど)にうまれんとおもえとなり。(『真宗聖典』五一二頁)
■参考 (頁はすべて『真宗聖典』)
◆信楽
・この信楽(しんぎょう)は、仏にならんとねがうともうすこころなり。この願作仏心(がんさぶっしん)は、すなわち度衆生心(どしゅじょうしん)なり。この度衆生心ともうすは、すなわち衆生をして生死(しょうじ)の大海(たいかい)をわたすこころなり。この信楽(しんぎょう)は、衆生をして無上涅槃(ねはん)にいたらしむる心(しん)なり。この心(しん)すなわち大菩提心(だいぼだいしん)なり。大慈(だいじ)大悲心なり。(五五五頁『唯信鈔文意』)

◆ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば
・「一心専念(いっしんせんねん)」というは、「一心(いっしん)」は、金剛(こんごう)の信心(しんじん)なり。「専念(せんねん)」は、一向専修(いっこうせんじゅ)なり。一向は、余(よ)の善(ぜん)にうつらず、余(よ)の仏(ぶつ)を念(ねん)ぜず。専修(せんじゅ)は、本願のみなを、ふたごころなく、もっぱら修(しゅ)するなり。修(しゅ)は、こころのさだまらぬをつくろいなおし、おこなうなり。専(せん)は、もっぱらという、一(いち)というなり。もっぱらというは、余善(よぜん)・他仏(たぶつ)にうつるこころなきをいうなり。(五四〇頁『一念多念文意』)

◆凡夫自力のこころ
・自力(じりき)というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根(ぜんごん)をたのむひとなり。(五四一頁『一念多念文意』)

◆欲生
・「欲生(よくしょう)」と言うは、すなわちこれ如来、諸有(しょう)の群生(ぐんじょう)を招喚(しょうかん)したまうの勅命(ちょくめい)なり。すなわち真実の信楽(しんぎょう)をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖(ぼんしょう)・定散(じょうさん)・自力の回向(えこう)にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。(二三二頁「信巻」)

◆安楽浄土
・住持楽とは、謂(い)わくかの安楽浄土(あんらくじょうど)は、阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願力のために住持せられて、楽を受くるに間(ひま)なきなり。(二九三頁「証巻」『浄土論註』)
・安楽浄土は、もろもろの往生の者(ひと)、不浄の色(しき)なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。(中略)大悲はすなわちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえなればなり。(三一四頁「真仏土巻」『浄土論註』)
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「三宝としてのサンガ論」研究会
「正信念仏偈」研究会源信『一乗要決』研究会聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
近現代『教行信証』研究検証プロジェクトインタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス