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研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
 人生の悲しさとして、「報われない」ということがある。どれだけ努力しても、あるいはどれだけの善意をもってしても、自分の期待どおりの結果が返ってくるかどうかは別の問題である。例えば震災以後、その根本的な問題性が指摘され続けている「原発」だが、かつては日本の未来のため、世界のエネルギー問題のため、原発推進の使命感に燃える狄新な甓奮惻圓呂修譴海修燭さんいたという。それを無意識のうちに受け入れてきた大多数の私たちにしても、悪意をもってそうしていたわけではない。
 私たちは、みんな「決めたがり」である。そもそも、「これは良い」、「あれはダメ」と決めていかなければ、私たちの生活が成り立たない。しかし困ったことには、同時にその判断のもとで苦しまなければならない。それは「南無阿弥陀仏」に対してもそうである。時代と環境のもとでいくらでも変化する、あやふやな価値判断によって、歪めなくてよいものを歪め、そのせいでかえって苦しんでいる。親鸞の受け取った「ただ信ぜよ」、「ただ念ぜよ」とは、私たち一人ひとりが抱えている、堂々巡りのこの悲しみに対しての呼びかけである。(研究員 内記 洸)
『尊号真像銘文』試訳 3 >> PDF版はこちら

現代語
 「乃至十念(ないしじゅうねん)」というのは、どのように念仏したらよいかという、念仏の仕方についての善し悪しを、私たちがあれこれと言う必要がない、というのです。如来の誓いは、私たちに「ただ信ぜよ」と呼びかけています。それに応えて「南無阿弥陀仏」と口にするのですから、たくさん称えたほうが良いとか、一度だけすれば良いとか、あるいはいつ、どのような場合に念仏したら良いなどといったことは、そもそも問題ではありません。如来の誓いとして、「乃至」という言葉が「十念」という言葉──つまり「南無阿弥陀仏」という言葉──のうえにあえて添えられているのは、このことを教えるためなのです。如来からすでにそう誓われているのですから、念仏とは、死ぬときに仏さまの「お迎え」を期待してするものではありません。ただ、日々の生活の一瞬一瞬に「南無阿弥陀仏」が口をつく。如来が誓ってくださっている「至心信楽(ししんしんぎょう)」ただ一つに、疑うことなくお任せしなさい、というのですから、そのほかにどんな思慮分別を加える必要があるでしょう。この真実の「信じる心」が芽生える、その瞬間に、「すべての人間を、区別することなく救い取りたい」という如来の誓いの光のなかに、誰もが包まれているのです。ですからこれは、如来の大悲のもとで、この身を今、尽くしていけるのだ、ということでしょう。

訳:親鸞仏教センター

原 文
 「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍(へん)数(じゆ)のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼして、乃(ない)至(し)のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御(おん)ちかいをたまわりぬるには、尋(じん)常(じよう)の時節をとりて、 臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至(し)心信(しん)楽(ぎよう)をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。(『真宗聖典』五一二頁)
■参考(頁はすべて『真宗聖典』 ……は省略を表す))
◆如来のちかいの名号
・弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもって往生を得易し。(一七四頁『教行信証』「行巻」『往生礼讃』)

◆遍数のさだまりなき / 時節をさだめざる
・「乃至」は、かみ・しもと、おおき・すくなき・ちかき・とおき・ひさしきをも、みなおさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかいなり。(五五八頁『唯信鈔文意』)

・「行住座臥不問時節久近」というは、「行」は、あるくなり。「住」は、たたるなり。「座」は、いるなり。「臥」は、ふすなり。「不問」は、とわずというなり。「時」は、ときなり、十二時なり。「節」は、ときなり、十二月、四季なり。「久」は、ひさしき、「近」は、ちかしとなり。ときをえらばざれば、不浄のときをへだてず、よろずのことをきらわざれば、不問というなり。……一念多念のあらそいをなすひとは、異学別解のひとともうすなり。異学というは、聖道外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり。これらはひとえに自力をたのむものなり。(五四一頁『一念多念文意』)

◆尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず
・「願力摂得往生」というは、大願業力摂取して往生をえしむといえるこころなり。すでに尋常のとき、信楽をえたる人というなり。臨終のとき、はじめて信楽決定して摂取にあずかるものにはあらず。ひごろかの心光に摂護せられまいらせたるゆえに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆえに、臨終のときにあらず。かねて尋常のときよりつねに摂護してすてたまわざれば、摂得往生ともうすなり。……臨終の来迎をまつものは、いまだ信心をえぬものなれば、臨終をこころにかけてなげくなり。(五二二頁『尊号真像銘文』)

◆摂取不捨の心光
・ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。(二四八頁『教行信証』「信巻」『観念法門』)

◆正定聚のくらい
・往生の心うたがいなくなり候うは、摂取せられまいらするゆえとみえて候う。摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしまし候えば、正定聚のくらいとなづけておわします事にて候うなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからいにて、発起せしめ給い候うとみえてそうらえば、信心のさだまると申すは、摂取にあずかる時にて候うなり。そののちは、正定聚のくらいにて、まことに浄土へうまるるまでは、候うべしとみえ候うなり。(五九〇頁『御消息集』)
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