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研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
 私たち一人ひとりの「名前」には、それをつけてくれた人の犹廚き瓩込められている。また、私たちの身の回りにあるさまざまな「名称」には、「それはこうこう、このようなものである」という牋嫐瓩込められている。「名」によって私たちは自他を区別し、物事をはっきりと判別することができるのだから、「名」がなければ「誰がいる」とも「何がある」とも言えないだろう。言い方を変えればこれは、個々の「名」に執らわれ、振り回されることによってしか私たちは生きられない、ということである。
 一方、「南無阿弥陀仏」という「名」は、「すべてのものが救われてほしい」という願いとして成り立っているという。「誰もが浄土に生まれるのでなければ、私は『阿弥陀仏』にはならない」と誓われている、ということは、「阿弥陀」という名に「ありとあらゆる存在が、平等に、そのままの姿で包まれている」、ということである。この言葉は、私たち自身のありようをバラバラに固定するのではなく、凝り固まったその関係をときほぐそうとしている。そのように矛盾した「名」は、他にあるだろうか。せいでかえって苦しんでいる。親鸞の受け取った「ただ信ぜよ」、「ただ念ぜよ」とは、私たち一人ひとりが抱えている、堂々巡りのこの悲しみに対しての呼びかけである。(研究員 内記 洸)
『尊号真像銘文』試訳 4 >> PDF版はこちら

現代語
 「若不生者不取正覚」の「若不生者」は、「もし、誰もが私の『国』に生まれることがないならば」、という言葉で、「不取正覚」は、「私は決して『仏』にはならない」、という誓いの言葉です。これはつまり、「『真実の信じる心』を受け取ったにもかかわらず、私が願っているとおりの世界に生まれない者がもし一人でもいたとしたら、私が『阿弥陀仏』となることは決してない」、と誓われているのです。「誰もが平等に救われるのでなければ」という誓いのもと、「阿弥陀仏」という存在が成り立っているのですから、救いの道は私たちの誰に対しても分け隔てなく開かれています。こうした如来の願いが一体どのようにして起こされたのか、詳しい次第については、『唯信鈔』を読んでいただければはっきりするでしょう。「唯信」というのもつまりは、如来の誓いのもと、「真実の信楽」ただひとつを拠りどころとする心に他ならないのです。

訳:親鸞仏教センター

原 文
 「若不生者(にゃくふしょうじゃ) 不取正覚(ふしゅしょうがく)」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽(ししんしんぎょう)をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御(み)のりなり。この本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。唯信ともうすは、すなわちこの真実信楽をひとすじにとるこころをもうすなり。(『真宗聖典』五一三頁)
■参考(頁はすべて『真宗聖典』)
◆わが浄土にもしうまれずは、仏にならじ
・この願作仏心は、すなわち度衆生心なり。この度衆生心ともうすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は、衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。(五五五頁『唯信鈔文意』)

◆ちかい
・若不生者のちかいゆえ信楽まことにときいたり一念慶喜するひとは往生かならずさだまりぬ(四八一頁「讃阿弥陀仏偈和讃」二十四首目)

・「尊号」ともうすは、南無阿弥陀仏なり。「尊」は、とうとくすぐれたりとなり。「号」は、仏になりたもうてのちの御なをもうす。「名」は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり。この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり。この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり。(五四七頁『唯信鈔文意』)

◆この本願のようは
・「立弘誓」は、「立」は、たつという、なるという。「弘」は、ひろしという、ひろまるという。「誓」は、ちかいというなり。法蔵比丘、超世無上のちかいをおこして、ひろくひろめたまうともうすなり。超世は、よの仏の御ちかいにすぐれたまえりとなり。超は、こえたりというは、うえなしともうすなり。如来の、弘誓をおこしたまえるようは、この『唯信鈔』にくわしくあらわれたり。(五五〇頁『唯信鈔文意』)

◆この真実信楽をひとすじにとるこころ
・「但有専念阿弥陀仏衆生」というは、ひとすじにふたごころなく弥陀仏を念じたてまつるともうすなり。(五二三頁『尊号真像銘文』)

・自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。(五五二頁『唯信鈔文意』)
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