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研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
 「南無阿弥陀仏」の六字の釈に引き続いて、善導の銘文が語るのは念仏することの利益(り やく)(「増上縁」)である。曰(いわ)く、阿弥陀の本願力は念仏の人を包み、分け隔てなくその世界に生まれさせるのだ、と。ここで私たちは、「乗」を「智」と読む、不思議な文に出会う。

 言うまでもなく、「智」とは仏の智慧のことだ。仏教であるとは、すべて、この智慧を目指すということだ。言い方を変えるなら、それは私たちの日常の「知」ではない。情報が効率的に、迅速に世界中を行き交う現代、「知」もまた私たち自身の手につかみ取られ、所有されるものとなった。それは当然、知る私たちを前提としてそこに付加される知であって、私たち自身の存在の謎を問うことがない。そうではなく、私たち自身に相即し、それに丸ごと応答する智。親鸞はその智を「乗」の一字に読んだのだ。

「智」や「知」のそもそもの字義は、「神に祈り、誓約する」意だという。親鸞において仏の智とは、ただ何かを知ることではない。その背後に仏からの「知れ」を聞き取るところの「知る」である。智は知ったつもりの「我」を捕えて、その深淵へと突き返す。「願力にのせたまうとしるべし」。智が照らし出すのは前方ではなく、私たちの足下なのだ。 (元研究員 内記 洸)
『尊号真像銘文』試訳 25
「善導大師の銘文」(三)
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現代語
  「言摂生増上縁者(ごんせつしょうぞうじょうえんしゃ)」「摂生」とは、阿弥陀如来の誓いの心はどこまでも深く、あらゆる人々を誰一人区別することなくおさめ取ってくださるのだ、というのです。「如無量寿経(にょむりょうじゅきょう) 四十八願中説」とは、この「摂生」こそ、『無量寿経』に本願として説き出された、お釈迦さまの教えにほかならないのだと知りなさい、というのです。「若我成仏(にゃくがじょうぶつ)」とは、法蔵菩薩が自ら誓いを立てて、「私は必ず『仏』になろう。そのときには……」とおっしゃっている言葉です。「十方衆生」とは、異なる時代に生まれ、それぞれさまざまな境遇を生きなくてはならないすべての人々、つまり私たちです。「願生我国(がんしょうがこく)」とは、「〝真実の世界〟に生まれようと願いなさい」という、阿弥陀の呼びかけです。あらゆる人々に開かれた、本当に平等な世界に生まれたい、という願いが、私たち自身の底を破って湧(わ)き起こってくるのです。「称我名字(しょうがみょうじ)」とは、「私が『仏』となるときとは、誰もが私の『名』―南無阿弥陀仏―を称えるときである」というのです。「下至十声(げしじっしょう)」とは、「南無阿弥陀仏」と称えることがたとえ十回程度しかできない人であっても、というのです。「下至」とは、「十声」、つまり十回の念仏すらできない人であっても、あるいは「南無阿弥陀仏」の声を聞き、その名をただ信じる人であっても、ということです。「南無阿弥陀仏」の名のもと、その願いを受け取って生きる人が、阿弥陀のこの誓いからもれたり、見捨てられたりしてしまうことは決してない、ということを示しているのです。「乗我願力(じょうががんりき)」「乗」とは「乗りなさい」ということであり、これは「智慧」です。智慧とは、阿弥陀如来がその「願力」に乗せてくださるのだと「知りなさい」、ということです。阿弥陀の願いのはたらきに乗って阿弥陀の世界に生まれるのだと、その呼びかけのままに「知る」のです。「若不生者(にゃくふしょうじゃ) 不取正覚(ふしゅしょうがく)」とは、「この誓いを信じる人は、私の願いが実現した世界に必ず生まれるのだ。この願いが果たされないなら、私は決して『仏』にはならない」と、阿弥陀が自らお誓いになった言葉なのです。

原 文
 また曰(い)わく、「言摂生増上縁者 如無量寿経 四十八願中説 仏言若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名号 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚 此即是願往)生行人(しそくぜがんおうじょうぎょうにん) 命欲終時(みょうよくじゅじ) 願力摂得往生(がんりきしょうとくおうじょう) 故名摂生増上縁(こみょうせっしょうぞうじょうえん)」(観念法門)文

「言摂生増上縁者」というは、摂生は十方衆生を誓願におさめとらせたまうともうすこころなり。「如無量寿経 四十八願中説」というは、如来の本願をときたまえる釈迦の御(み)のりなりとしるべしとなり。「若我成仏」ともうすは、法蔵菩薩ちかいたまわく、もしわれ仏をえたらんにと、ときたまう。「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり。「願生我国」というは、安楽浄刹(じょうせつ)にうまれんとねがえとなり。「称我名字」というは、われ仏をえんに、わがなをとなえられんとなり。「下至十声」というは、名字をとなえられんこと、しも、とこえせんものとなり。下至というは、十声にあまれるものも聞名のものをも往生にもらさずきらわぬことをあらわししめすとなり。「乗我願力」というは、乗はのるべしという、また智なり。智というは、願力にのせたまうとしるべしとなり。願力に乗じて安楽浄刹にうまれんとしるなり。「若不生者 不取正覚」というは、ちかいを信じたる人、もし本願の実報土にうまれずは、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。(『真宗聖典』五二一頁)
■参考(頁はすべて『真宗聖典』)

摂生 / 十方衆生を誓願におさめとらせたまう
・弘願(ぐがん)と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生まるることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなきなり、と。 (一七六頁「行巻」「玄義分」)

・真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御(おん)こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。 (五三五頁『一念多念文意』)


「如無量寿経中 四十八願中説」 / 如来の本願をときたまえる
・「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。……二つには決定(けつじょう)して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑いなく慮(おもんばか)りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。 (二一五~二一六頁「信巻」「散善義」)


「願生我国」 / 安養浄刹にうまれんとねがえ
・「至心回向(ししんえこう)」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御(おん)こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。「願生彼国」というは、「願生」は、よろずの衆生、本願の報土へうまれんとねがえとなり。 (五三五頁『一念多念文意』)


「下至十声」 / 十声にあまれるものも聞名のものをも往生にもらさずきらわぬ
・智昇師の『集諸経礼懺儀(しゅうしょきょうらいさんぎ)』の下巻に云わく、深心は、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少(ぜんごんはくしょう)にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願(ほんぐぜいがん)は、名号を称すること下至十声聞(ぎしじっしょうもん)等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。かるがゆえに深心と名づく、と。已上
 『経』に「乃至(ないし)」と言い、『釈』に「下至」と曰えり。「乃」「下」その言(ことば)異なりといえども、その意、これ一なり。また「乃至」とは、一多包容の言(ことば)なり。  (一九一~一九二頁「行巻」)

・「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数(へんじゅ)のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。 (五一二頁「大経銘文」)


「乗」「智」 / 願力に乗じて安楽浄刹にうまれんとしる
・当(まさ)にまた例を引きて、自力・他力の想を示すべし。人、三塗(さんず)を畏(おそ)るるがゆえに、禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆえに、よく禅定を修す。禅定を修するをもってのゆえに、神通(じんずう)を修習す。神通をもってのゆえに、よく四天下(てんげ)に遊ぶがごとし。かくのごとき等を名づけて自力とす。また、劣夫(れっぷ)の、驢(ろ)に跨(またが)りて上(のぼ)らざれども、転輪王の行くに従えば、すなわち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍(しょうげ)するところなきがごとし。かくのごとき等を名づけて他力とす。愚かなるかな、後の学者、他力の乗ずべきを聞きて、当に信心を生ずべし。自ら局分することなかれ、となり。 (一九六頁「行巻」『論註』)

・一乗海」と言うは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得るなり。阿耨菩提はすなわちこれ涅槃界(ねはんがい)なり。涅槃界はすなわちこれ究竟(くきょう)法身(ほっしん)なり。究竟法身を得るは、すなわち一乗を究竟するなり。如来に異なることましまさず、法身に異なることましまさず。如来はすなわち法身なり。一乗を究竟するは、すなわちこれ無辺不断なり。大乗は、二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は、一乗に入れしめんとなり。一乗はすなわち第一義乗なり。ただこれ、誓願一仏乗なり。 (一九六~一九七頁「行巻」) ・智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし/ 無明長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海の船筏(せんばつ)なり 罪障おもしとなげかざれ (五〇三頁「正像末浄土和讃」)

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