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研究活動報告
『西方指南抄』研究会
 親鸞(1173~1262)の真筆として伝存する『西方指南抄』は法然(1133~1212)の遺文を集めた最初期のものである。この『西方指南抄』、ひいては法然の歴史的意義を考えるうえで、法然当時の僧侶世界の状況を把握することは欠かせないものである。そこで『西方指南抄』研究会では、12月15日に蓑輪顕量氏(東京大学大学院人文社会系研究科教授)を迎えて研究会を開催し、「遁世」をキーワードに当時の僧侶世界の実態について提言をいただいた。ここにその研究会での蓑輪氏の提言から、法然における遁世の意義について検討していきたい。

院政期から鎌倉期にかけての遁世
―法然の遁世は他の遁世と異なるのか―


 親鸞仏教センター研究員   中村   玲太
1 中世仏教を見る視座
 『西方指南抄』は法然の遺文を収録するものであり、まずもって「法然」とは一体何者であったのか、という問いかけが重要であると考える。法然を歴史のなかでどのように位置づけ、法然をどう見ていくのか、という問題は、家永三郎氏等をはじめ長らく議論されてきた。
 これは中世仏教をどのような視座から見るのか、ということが前提であるが、近年提唱されたのが「交衆(きょうしゅ)」と「遁世」という見方である(菊地大樹『鎌倉仏教への道 実践と修学・信心の系譜』〈講談社メチエ文庫、2011〉等参照)。なお、この交衆と遁世僧は二項対立的なものではなく、交衆が中心部に存在し、遁世は周辺部に存在する僧侶たちと規定し、その関係を緩やかにとらえるものである。本研究会でも初めにこの交衆と遁世僧という枠組みについて確認がなされた。
 蓑輪氏は、顕密体制論で図式的には大方問題ないとしながらも、改革派と異端派とに分ける視点が多少問題であると指摘する。何をもって改革派とし、異端派とするのか、ということが現代の感覚が入って恣(し)意的なのではないかと。そうした恣意的な感覚が入らない史料用語を使って提示できるということで、中世仏教を「交衆」と「遁世」に分けて見る視座が妥当ではないかとする。  以下に、本研究会で確認された交衆と遁世僧、そして法然の問題について報告していきたい。
2  交衆と遁世の登場
 まず蓑輪氏は、奈良中期から僧侶世界のなかでは、「行」と「学」という二つの視点が存在していたと考えてよいとして、この両者を大切にする伝統が本来存在したのではないかとする。そのようななかで、この伝統が崩れていく出発点として、「延暦二十五年太政官符」が指摘された。この「延暦太政官符」では、学問に秀でた僧侶を高い官職に任命するとし、僧侶世界の出世の階梯(てい)が規定された。
 蓑輪氏は、顕密体制のなかで、特に顕教を中心に考えている僧侶にとっては学問が大事になってくるとし、学問を研鑽する僧侶が「学侶」と呼ばれ、学侶出身の僧侶が寺院の頂点に立つ、という形式ができてくると指摘する。また、顕教の僧侶たちは、法会(ほうえ)、論義を媒介にして僧位僧官を得ていくことになる。こうした格式のある法会に出仕し護国に努めていくのが交衆である。
 学問を中心に研鑽する人が僧侶世界の頂点に立つような状況のなか、僧侶の遁世というものが見えてくる。遁世僧というのは、名聞利養を求める僧侶世界の在り方に反対して成立したという。さらに、遁世僧成立の一要因として出自と僧侶世界の地位の問題も指摘された。
3 遁世僧の例―貞慶の場合
 遁世僧として注目されるのが南都の貞慶(じょうけい)(1155~1213)である。貞慶より少し時代は下るが、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』巻五・貞慶伝には、当時の僧侶世界を「浮誇(ふこ)」、浮ついた誇りを求めているだけだとし、そのような者たちと同じにはなりたくないと笠置(かさぎ)寺に遁世するありさまが語られている(『大日本仏教全書』一〇一、204頁上)。貞慶は「法勝寺御八講(ほっしょうじみはっこう)」など格式の高い法会に出仕していたが、建久元年(1190)以降にはそのような法会には出仕していない。これは遁世したためと見られる。
 蓑輪氏は、南都系の新しい改革運動は、学侶系の僧侶が遁世をして起こしていると指摘する。交衆であるとできないことを遁世僧が積極的に行い、南都の仏教界に新しい風が吹いたのである。
 ただ、交衆と遁世僧との関係は緩やかなものである。貞慶にしても遁世以降も興福寺との関係は続いており、貞慶起草と言われる『興福寺奏状』は遁世以降の成立である。また、一例として挙げられたのが、『円照上人行状』で登場する如空房理然である。理然は、交衆を辞して遁世し、さらに遁世を辞めて交衆に戻った、ということが伝えられている。
4  叡山の遁世僧と法然
 『西方指南抄』の「源空聖人私日記」に「久安六年庚午十八歳、始師匠乞請暇遁世」(『定本親鸞聖人全集』五、174頁)とあるように、法然は十八歳のときに黒谷の叡空のもとに遁世する。法然の遁世した黒谷は、西塔の僧侶が隠遁した比叡山の別所として有名なところである。
 蓑輪氏は、貞慶等南都系の遁世僧と法然の違いを指摘して、法然が山に上がるときには遁世僧が拠点とするところがすでに存在していて、そこに入ったのだとする。つまり、格式の高い法会に出仕していた貞慶等と違い、最初から僧侶世界の出世を目指す学問ではないものを行っているというのが法然の特徴ではないか。遁世の立場で修学を続けており、最初から名利を離れた在り方を貫いたところに特徴があるのではないか、ということを提起された。

 報告者としては、以上の蓑輪氏の提言を受けて検討すべきは、法然における黒谷遁世と叡山を下りることの相違であると考える。おそらく当時の叡山の状況では、法然にとって遁世僧となることは自然の推移であったとも言えよう。そこから山を下りるという契機が問題である。法然は名聞利養から離れた在り方を模索し、真の仏道修行を求めるほどに名聞利養から離れがたい人間性が自覚され、ここに山を下りる、専修念仏の道を歩むという転換があったのではないだろうか。つまり、遁世僧としての修道の結果、遁世としての在り方にも疑問を見いだしたところに法然の転機があったのではないかと考える。
  いずれにせよ、法然を考えるうえで交衆や遁世僧といった当時の僧侶世界の枠組みは重要な視点であり、こうした僧侶世界の状況を念頭に置いて法然の歴史的位置を考究しながら、『西方指南抄』の読解を進めていきたい。
(文責:親鸞仏教センター)

※蓑輪顕量氏の講義と質疑は、『現代と親鸞』第31号(2015年12月1日号)に掲載しています。

蓑輪   顕量(みのわ   けんりょう) 東京大学大学院人文社会系研究科教授
 1960年、千葉県生まれ。1983年、東京大学文学部印度哲学印度文学専修課程卒業。学術振興会特別研究員、財団法人東方研究会専任研究員などを経て、現在は東京大学大学院人文社会系研究科教授。文学博士。
 著書に、『中世初期南都戒律復興の研究』(1999年・法蔵館)、『仏教瞑想論』(2008年・春秋社)、『日本仏教の教理形成―法会における唱導と論議の研究―』(2009年・大蔵出版)。
 訳著に『日本の宗教』(2007年・春秋社)。その他論文多数。
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