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研究活動報告
「『教行信証』と善導」研究会
 2017年4 月17日、大正大学非常勤講師である柴田泰山氏をお招きし、「善導『観経疏』について」というテーマのもと、研究会を開催した。「『教行信証』と善導」研究会は、親鸞思想に与えた善導の影響について考究することを目的の一つとしているが、しかし中国仏教史上における善導の位置付けが不明瞭なままでは、親鸞における善導受容の特徴や独自性も明らかにならない。そのため今回は、あえて親鸞教学への影響には踏み込まず、唐代初期の仏教界における善導の意義について、当時の思想状況を詳しく検討しながらお話をいただいた。ここに、その一端を報告する。 (親鸞仏教センター研究員 青柳 英司)
善導『観経疏』について

大正大学非常勤講師
柴田 泰山 氏
■ 善導と玄奘
 善導の『観経疏』は、「古今楷定(ここんかいじょう)」を標榜(ひょうぼう)した著作である。「古今」の「古」は従来から指摘されているように、浄影寺(じょうようじ)の慧遠(えおん)が中心であろう。これに対して「今」の中心となる人物は、玄奘(げんじょう)であると考えられる。
 周知のとおり玄奘は、国禁を犯してインドへ留学した後、多くの梵本と共に帰国し、その翻訳に取り組んだ。玄奘が訳出した諸経論は当時の仏教研究に大きな影響を与え、如来蔵思想的心意識説が中心だった研究状況を一変させている。
 そして玄奘とほぼ同時期に、同じ長安の都で阿弥陀仏信仰を宣揚し、大衆を教化していたのが善導である。ただ現存する資料からは、両者の接点を見いだすことはできない。特に善導は、玄奘が訳出した経論を参照できる環境にあったと推測されるが、五部九巻のなかに明確な影響を指摘することはできない。
 しかしながら、玄奘やその周囲の人物による阿弥陀仏信仰への言及を整理すると、「凡夫が阿弥陀仏の報土へ速やかに往生することはできない」という批判を読み取ることができる。
 玄奘らの立場では、阿弥陀仏はあくまでも「浄土建立者」であって、「衆生救済者」としての性格は希薄である。そのため、阿弥陀仏の浄土の高位性と衆生の宗教的実践能力とが乖離(かいり)する結果となり、どうしても別時意説を介在させる必要が生じたのである。
 一方、善導の場合は阿弥陀仏を、明確に「衆生救済者」としてとらえ、浄土も衆生救済の場として建立されたと理解する。ここに善導と玄奘の顕著な相違を見ることができる。そのため善導は、玄奘らによる阿弥陀仏信仰への理解を、許容しえなかったであろう。
 しかし、玄奘が翻訳した諸経論を使用するのであれば、どうしても阿弥陀仏の理解が「浄土建立者」的にならざるをえない。また、玄奘が紹介した唯識関連典籍を用いた場合、一切の存在も事象も阿頼耶識(あらやしき)所現であるとする唯識思想を受容したこととなり、阿弥陀仏も浄土も阿頼耶識を前提として考えることを強いられる。だからこそ、善導は意図的に玄奘訳から一定の距離を置いたのではないだろうか。
 なお、玄奘が善導をどのように見ていたのかも明らかでない。しかし、玄奘の阿弥陀仏信仰に対する理解から推し量ると、善導の主張内容には首肯できなかったものと想像される。
 ただ、善導と玄奘が共に「成仏」について深い洞察を行い、「仏教とは何か」「釈尊のさとりとは何か」という問題を真摯(しんし)に受け止めようとしていたことは間違いない。
 そして善導は、一切衆生を無明的存在であるとして成仏の可能性を否定し、玄奘は一切衆生に阿頼耶識の存在を認知して、成仏の理論を提示したのである。両者は共に「成仏」について探求し、その可能性の是非をめぐって異なった理解を採ったからこそ、阿弥陀仏の存在をどのように理解するかが決定的に異なったのかもしれない。だからこそ、「仏の救済」を論理化する善導と、「自らが仏と成っていく過程」を論理化する玄奘とが、今なお思想的に対峙(たいじ)するのだろう。
■ 善導『観経疏』の宗教的世界
 善導が『観経疏』を著したのは、以上のような批判が渦巻く時代状況の中であった。この著作において善導は、仏身・仏土や衆生往生の成立原理をすべて阿弥陀仏の本願に見いだし、まさに「本願往生説」と呼ぶべき思想を確立している。
 しかし善導は、どうしてここまで本願を強調したのだろうか。それは、「未来世一切衆生」「一切凡夫」の救済を明らかにするためであったと考えられる。善導の言う「凡夫」は、「初地(しょぢ)」に入らない者という意味ではない。「罪悪生死の凡夫」という表現があるように、自らの無明のために悪業を作り、罪を犯して惑・業・苦を繰り返し、仏果はもちろん、大乗菩薩道の実践階位にすら立ちえない存在である。
 では、善導において「罪悪」とは、どのようなものであろうか。まず「罪」だが、これは釈尊が禁じた行為、破戒行為を指すと考えられる。次に「悪」だが、これは単なる世間的・倫理的なものではなく、次生以後の輪廻(りんね)の因となるすべての行為を指すものだろう。凡夫にとってあらゆる行為は自らの煩悩から起こされるものであり、悪意志に基づくすべての行為は、そのまま輪廻の因となる。そして、凡夫にとって自らの無明を根拠としない唯一の行為が、念仏の一行なのである。
  なお、善導は悪業に関しても、唯識的理解を採用しない。これは推論だが、確かに法相唯識の論理で煩悩・苦が生起する構造は説明できるだろう。しかしそれは、直接、人間を救済する論理にはならないからだろう。
 善導は種々の苦痛や苦悩が、凡夫の宗教的能力では払拭(ふっしょく)できないことを知っており、だからこそ凡夫には苦の論理の説明ではなく、他者からの救済が必要であると考えたのではないだろうか。
 そして、善導は阿弥陀仏と衆生との積極的な関わりを、『観経疏』の三縁釈において説示している。すなわち衆生は、念仏の一声一声において阿弥陀仏の光明に照射され、阿弥陀仏との親近性が新たに成立し、阿弥陀仏の本願の本意と対応していくのである。ここにこそ、善導が求め続けた、阿弥陀仏の救済の真実性があると言えるだろう。
■ おわりに――柴田氏からの提言
 善導は、法然の伝統に連なる諸宗派が共に重要視する人物である。しかし、それらの宗派間でさえ、教学上の対話は十分になされていない。他宗との対話を通さずしては、自己認識も自己変革も十分に進めることはできない。他宗との発展的な議論を目指すことによってこそ、本当に開かれた教学が実現し、また教学の未来もそこに開かれるのではないだろうか。

※ 柴田氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第37号(2018年6 月1 日号)掲載してます。


柴田 泰山(しばた たいせん)氏
大正大学非常勤講師
 1971年、福岡県北九州市生まれ。1994年、大正大学仏教学部仏教学科卒業。2004年、同大学で博士(仏教学)を取得。元大正大学特別任用准教授。現在、大正大学非常勤講師、浄土宗総合研究所研究員、三康文化研究所研究員、浄土宗弘善寺住職。
 著書に、『善導教学の研究』(山喜房佛書林、2006年)、『善導教学の研究』第二巻(山喜房佛書林、2014年)など。
 編著に、『現代語訳 聖光上人御法語集』(大本山善導寺、2013年)など。
 論文に、「善導『観経疏』所説の教判論について」(『印度学仏教学研究』第61号( 2 )、印度学仏教学会、2013年)、「善導『観経疏』所説の十四行偈について」(『三康文化研究所報』第47号、三康文化研究所、2016年)など。
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