第24回
『歎異抄』思想の解明
(第Ⅲ期 第4回)
2025年4月15日(火)
午後7時30分から
午後9時まで
会場 親鸞仏教センター
<ZOOM配信あり>
要事前申し込み
下記リンクから申し込みください
『歎異抄』は、親鸞の直弟子によって記され、親鸞の生き活きとした語りを伝える書として有名な書物です。
『歎異抄』は、それぞれの時代の中で、さまざまな関心のもとで読まれてきました。たとえば、江戸時代には護教的な関心から破邪顕正(はじゃけんしょう)の書として、近代に入った後は、宗派という枠を超えて親鸞という個の信仰告白の書として読まれる傾向がありました。
この講座では、親鸞の言葉が現代の危機的な状況の中でどのようなリアリティをもつのか、また親鸞の言葉を相続していくとはどのような営みであるのか、これらの課題をもって、『歎異抄』思想がもつ現代的意義を聴講者の皆さんと共に解き明かしていきます。
これまで第Ⅰ期では、『歎異抄』に対するさまざまな誤解から『歎異抄』を解放し、『歎異抄』思想の現代における可能性を切り拓くという課題をもって巻頭の「序」をていねいに講読しました。
第Ⅱ期では、『歎異抄』の本文の第一章から第三章を、親鸞聖人の安心(あんじん)を表わす訓(おし)えとして位置づけ、『歎異抄』の「先師口伝の真信」を基礎づける思想とは何かを解き明かすことに努めました。
この度の第Ⅲ期では、『歎異抄』の本文の第四章から第六章までを拝読します。第四章以降は起行(きぎょう)を表わす訓えと位置づけることができます。起行とは、安心にもとづいた生活を意味します。とくに第四章から第六章には、安心に立つものがどのように他者に関わるのかについての仰せが記されています。
たとえば、慈悲とは念仏していそぎ仏になって衆生をすくうことである(第四章)、親鸞は父母の孝養のために一返も念仏したことはない(第五章)、親鸞は弟子を一人ももっていない(第六章)など、他者との関わり方を問い直してくる印象的な語りが出てきます。
この第Ⅲ期での学びを、私たちの自我関心に立った他者との関わり方を問い直す機会にできればと思っています。
(加来 雄之)
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すでに『歎異抄』については、武田定光氏が『親鸞仏教センター通信』の2002年January創刊号から2007年June第22号まで「『聖典の試訳』(現代語訳化)」において担当し、その成果をさまざまな形で公開している。
ただ、センターとして『歎異抄』を取り上げてからすでに15年の歳月が過ぎているし、またこの度は、『歎異抄』を『聖典の試訳』(現代語訳化)としてではなく、定例講座として取り組みたいと思う。
『歎異抄』の解説や講義はこれまでもきわめて多く、現代でもしばしば取り上げられることの多いテキストである。その『歎異抄』をあらためてセンターの定例講座として開設する意義があるのだろうか。
つまり、なぜ今『歎異抄』なのか。
20世紀の浄土真宗の思想を牽引してきたのが『歎異抄』であった。親鸞の人と思想とを宗派の枠を越えて一般の人々に開放する端緒となったのは『歎異抄』であった。日本文化を越えて親鸞の人と思想とを、海外に伝播する先駆けの役割を果たしたのも『歎異抄』であった。
しかし、今日においては親鸞の思想を理解するためには、弟子の聞書である『歎異抄』ではなく、親鸞自身の著述である『教行信証』などに依るべきであるという見解を耳にすることがある。確かに親鸞思想を解明するという課題においてはそうであろう。しかし『歎異抄』は親鸞には書くことができない著述なのである。
では現代の思想状況において『歎異抄』は賞味期限が切れたのであろうか。また『歎異抄』の思想は解明しつくされたと言うことができるのであろうか。
『歎異抄』は近世においては破邪顕正の書として読まれ、近代においては信仰の書として読まれることが多かった[1]。ひょっとすると賞味期限が切れたのは近世・近代における『歎異抄』理解であるのではないか。私たちは現代における『歎異抄』思想の可能性を新たに切り拓くことがでないのだろうか。
私は、『歎異抄』が致命的な誤解の中に置かれていると思う。『歎異抄』は親鸞という人格を正しく伝えていない。『歎異抄』は、親鸞の教義を正しく伝えていない。『歎異抄』は道徳破壊の危険な書である。これらの疑難は、『歎異抄』というテキストの性格についての誤解や、切り取られた『歎異抄』を読んだ結果にもとづいている。実は、『歎異抄』は親鸞の言行録でもないし、また親鸞思想の入門書でもないのである。
現存するもっとも古い『歎異抄』の写本(蓮如書写本)には「耳の底に留むる所、いささか之を注す」とある。「留まる所」ではない。私の理解するところでは、『歎異抄』は「先師口伝の真信に異なることを歎く」という切実なそして明確な問題意識をもって、その使命を果たし遂げるために、厳選された親鸞の言葉を体系的に配置することで撰述されたテキストなのである。宗教言説の本質と力が見失われている現代こそ、徹底してそのようなテキストとして『歎異抄』を読み解くことが求められているのではないか。
このたびの講座においては、私たちがみずから出遇った宗教言説(「よきひとのおおせ」)を相続するとはどのような営みであるのかという視点から『歎異抄』の思想がもつ現代的意義を聴講の皆さんと共に解き明かしていきたいと考えている。
[1] 近代における『歎異抄』の受容・理解については子安宣邦の『歎異抄の近代』によって一つの方向が示された「現代のわれわれに応答を促すような問いかけをもった信仰書として」(子安23頁)「〈信〉の事象を人びとにもたらすようなテキスト」(子安23頁)
本講座では、『歎異抄』を講読していきます。私たちが、今、すでに出遇っている宗教言説(「よきひとのおおせ」)を相続していくこととはどのような営みであるのかという視点から、『歎異抄』の思想がもつ現代的意義を聴講者の皆さんと共に解き明かしていきたいと思います。
浄土真宗にとっての20世紀は『歎異抄』の世紀というべきものでした。20世紀初頭に、それまで宗派内のテキストに過ぎなかった『歎異抄』が、清沢満之によって信仰の書として再発見されましたが、それから約120年が過ぎ、今日では日本の宗教思想を代表する書のひとつとして知られるようになりました。親鸞の人と思想とを、宗派の枠を越えて一般の人に開放する端緒となったのが『歎異抄』でしたし、日本という枠を越えて海外に紹介する先駆けの役割を果たしたのも『歎異抄』でした。
第Ⅰ期では、『歎異抄』というテキストに対するさまざまな誤解から『歎異抄』を解放し、現代における『歎異抄』思想の可能性を新たに切り拓くという課題をもって「漢文序」をていねいに講読しました。『歎異抄』とは、親鸞聖人の宗教言説の本意が見失われていることを歎き、その本質と力を回復する使命を、親鸞聖人自身の仰せ(「御物語」)に学ぶことで果たし遂げようとするテキストでした。
この度の第Ⅱ期では、『歎異抄』の本文の第一章から第三章を拝読します。このはじめの三章は、親鸞聖人の安心(あんじん)を表わす訓(おし)えとして位置づけられています。
とくに第一章は、親鸞聖人が法然上人の宗教言説をどのように受容したかを、これ以上ないほど簡明に示しています。『歎異抄』の思想を読み解くための根本となる章です。
第二章は、親鸞聖人自身が法然上人の宗教言説を相続していくときの立場を、「たとえ法然上人にだまされて念仏して地獄に落ちたとしてもまったく後悔するはずがない」などと感銘深く伝えています。
第三章は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という法然上人の宗教言説に対する親鸞聖人の独創的な受けとめが示される章です。いわゆる悪人正機説が出る有名な章です。
この三章は、法然上人の仰せを受けとめる親鸞聖人の根本となる立脚地を示しており、『歎異抄』思想を解き明かしていくための原点となります。
(加来 雄之)