比較文学、映画研究家
四方田 犬彦
(YOMOTA Inuhiko)
*『教行信証』を信仰と教義の書物としてでもなく、メディア学、書物の社会学の視座に立って読むことは可能だろうか。この大部のテクストにおける先行する経典からの引用のあり方について、考えてみなければならない。
こういうといかにも難しく聞こえるが、次のようなことを考えてみるのはどうだろう。
親鸞がこの大著を執筆するにあたって、どのような書物(経典)を読んだか。その書物をどこから入手したか。コピー機もスキャン装置もなく、未知の貴重書の内容を知るには、筆写しか方法がなかった13世紀に、彼は苦心して夥しい数の経典を手に入れ、それを一冊一冊吟味し比較検討して思考に思考を重ねたあげく、ついに『大般涅槃経』に到達した。
当時、書物はどのような形で流通していた(あるいはしていなかった)のか。 親鸞が『教行信証』をみだりに弟子たちに閲覧させず、代わりに高齢にいたって聖覚の『唯信鈔』をいくたびも筆写し、弟子たちに与えていたという事実は、いったい何を意味しているのだろうか。こうした観点から『教行信証』の執筆の意図とスタイルを考えてみる。
*『教行信証』にもっとも近いスタイルの書物は、私見ではマルクスの『経済学・哲学草稿』である。
マルクスの草稿は前半、国民経済学派や青年ヘーゲル学派の著作からの、いつ尽きるとも知れぬ引用の羅列である。だが、やがてその合間を縫って、批判的思弁がゆっくりと立ち上がり、最初は恣意的であるかのように思えた他者の言葉の羅列が、ある時点から急速に文脈を明確にして収斂してゆく。ところがマルクスは最終部分に到って、貨幣と労働をめぐる諸説の批判から突然に離れ、抒情的でユートピア的な文体のもとに、愛と信頼について個人的な確信を語り、急ぎ足で語り草稿を閉じてしまう。
夥しい引用の連鎖の果てに浮かび上がってくる思考。結末部においてふいに出現する転調。そこで語られることになる、あまりに個人的な挿話。若きマルクスが遺したこの草稿のあり方は、「化身土巻」の巻末に辿り着いた親鸞が、突然に師法然との日々を回想し、みずからの信仰の遍歴を簡潔な文章のもとに語り出すに到ったことに似ている。この部分の文学としての美しさをまず見つめなければならない。
*書物は独自に自立したものではなく、無限に存在する書物と書物の間隙に成立し、その網状組織の一結節点にすぎない。現在のテクスト理論は、これまで古典的に認められてきた〈作者〉の全能性、つまり書物の起源である〈作者〉の特権的な権能を絶対視することから距離を置き、あらゆる書物は程度の差こそあれ、他者の言葉、他者の書物の引用の収蔵庫であるという立場をとろうとしている。こうした書物観の変遷のなかで、『教行信証』を『経哲草稿』のかたわらに置き、巨大な引用の織物として認識することは可能だろうか?
*すべての真理は『大無量寿経』という絶対の公準から導き出されたものであると認識する以上、親鸞は自分の著作に独創性を求めることを慎んだ。
親鸞が、自分の著作にはいささかも独創的なものはなく、すべては師法然から教えらえたことの受け売りであるとさりげなく語るとき、そこで問題となっているのは何か。二人のテクストの間に横たわる類似(隠喩や例証において)と差異を、教義の次元で抽象的に論じるのではなく、書物どうしの関係として捉え直すことは可能だろうか。西洋哲学は思考と教説における独創性をつねに重視してきた。親鸞がそうした観念を迷妄として退け、代わりに過去の先達への帰依を語るとき、何が問題とされているのだろうか。
*『教行信証』「教巻」は「それ真実の教をあらはさば、すなわち大無量寿経これなり」と宣言し、『大無量寿経』を究極の参照項としている(途中でそれは『大般涅槃経』へと転換される)。ではその他に参照言及されているあまたの経典とその注釈書は、どのような位階秩序のもとにあるのか。
『大無量寿経』は後漢朝から宋朝まで、千年の間に、12回にわたって漢訳がなされている。『無量清浄平等覚経』はそのもっとも古いものの一つであり、『無量寿如来会』は唐代の翻訳である。『教行信証』には『大無量寿経』と別にこうした書物からの引用がなされているが、著者はそれらが同一の書物であることをはたして認識していたのか。それとも阿弥陀仏の教えはいかなる書物にあっても同一であると信じ、別々の書物と見なしてそれぞれから引用を行なったのか。
『教行信証』ではしばしば異なった書名のもとに、ほとんど同一の内容の引用が連続してなされていることがある。どうしてそのような事態が生じるのか。 そこには流謫(るたく)の地にあってせっかく貴重な経典を入手した以上、とりあえず抜き書きをしておきたいという心理が働いていたのだろうか。『教行信証』という書物の特異な性格を理解するためには、こうした細部の事情を考慮しなければならない。
*「化身土巻」に次のような一節がある。
諸仏の言行あひ違失したまはず。たとひ釈迦さして一切の凡夫をすゝめて、この一身をつくして専念専修して、いのちをすてゝのちさだめてかの国に生ずといふは、すなはち十方の諸仏ことごとくみなおなじくほめ、おなじくすゝめ、おなじく証したまふ。なにをもてのゆへに、同体大悲のゆへに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。
仏はガンジス河の砂の数ほどに存在しているが、どの仏でもよい、一人の仏の言動は、他のすべての仏のそれと同じである。もしそうであるならば、経典においても同様のことがいえるだろうか。親鸞において仏と経典は、互いに齟齬をきたすことなく、個別性・独創性をはるかに超越したものである。ある経典と、別の題名をもつ別の経典が、同じ内容であったとしても、それはいささかも異にするに当たらない。『大無量寿経』が異なった漢訳の下に、異なった経典と見なされて引用されたとしても、それが同一の内容をもっていることは不思議でも何でもなく、仏の真理がつねに不変であることの証左として了解される。
*『教行信証』は万巻の経典を渉猟したという印象を与えるが、そこで言及されている仏典には一定の系列が存在している。『華厳経』はあっても『法華経』はない。日本ではもっともポピュラーであった『般若心経』は、まったく無視されている。「それ真実の教をあらはさば、すなわち大無量寿経これなり」という基準の設定ゆえに、そうした経典は自動的に排除されたと見るべきなのか。はたして親鸞はそれらに目を通したことがあったのか。
*「化身土巻」に、次のような一節がある。
それ仏陀といふは、漢には大覚といふ。菩提といふは、漢には大道といふ。涅槃といふは、漢には無為といふ。しかるに吾子ひめもすに菩提の地をふんで大道をしらず、すなわち菩提の異号なり。かたちを大覚のさかひにうけていまだ大覚をならはず、すなわち仏陀の訳名なり。
サンスクリット語で記された仏典は、千年の間、さまざまな形で漢訳された。船山徹『仏典はどう漢訳されたか』(岩波書店、2013年)を読むと、鳩摩羅什から玄奘三蔵まで、数多くの知識人仏僧がそれぞれの翻訳観に応じて翻訳語を考案し、経典を翻訳してきた。「仏陀」と「大覚」が同一のものであるという親鸞の認識は、どの程度にまで一般的であったのか。そのいずれかを採り、他を退けるという教説が存在したことはあったのか。またこのような差異が生じてしまったという事実を、親鸞はどのように考えていたのか。
『教行信証』の本質に近づくために、親鸞の翻訳観を探究してみなければならない。
(よもた いぬひこ・比較文学、映画研究家)
著書に『親鸞への接近』(工作舎)、『聖者のレッスン』(河出書房新社)など。