親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 『浄土論』を読んでいると、如来の悲願を象徴している形が、「荘厳(しょうごん)功徳」であるというのだが、実はその功徳とは、「一如(いちにょ)の功徳」だと親鸞は言う。一如の真実とは、一応そういう言葉で表現されてはいるが、その言葉が指示することを理解しようとすると、そこには大きな断絶がある。言葉は、普通には日常の意識や感覚・感情で、だれでも追体験できることを前提に、語り出されているのだろう。ところが、仏陀の言葉は、もともと不思議な感覚の現前とともに沸き上がってきた「存在の智慧」の表現である。普通の意識を破って、それを「妄念(もうねん)」と自覚させるような深層の智慧ともいうべき位相(いそう)から、妄念に苦しめられる意識を破るべく語り出された言葉である。

 その言葉を、単なる一般的な概念操作のレベルでわかろうとするのが、私たちの立場である。もちろん、私たちのような苦悩の衆生(しゅじょう)に語りかけるために、仏陀は言葉を発せられたのであるから、まったくわからないわけではない。しかし、妄念を晴らさなければ、本当にはわかったとはいえない。そこに、断絶を渡す橋が欲しいのである。言葉が橋となろうとするのであろうが、実はそれは私たちのなかに、この断絶を超えようという意欲が起こることを要求しているのである。

 普通には、人間社会をどのように生き抜いていこうか、という方向に私たちの意欲が動いていく。この社会の大きな作用に引っ張られて私たちの意欲が動かされているとも言える。ところが、仏陀の教えは、この人間の意欲の方向を「煩悩(ぼんのう)」にまつわられたものと言う。つまり、「名聞(みょうもん)・利養(りよう)・勝他(しょうた)」というような、この世の価値を追い求め、この世で勝ち抜く方向の意欲だというのである。 仏陀が私たちに呼びかける方向は、それとは違う。これが、そもそもわからないということになろう。その方向を呼び起こす社会、それを諸仏(しょうぶつ)世界という。諸仏世界のはたらきは、私たちがこの世間を突破するような方向に、なにか立ち上がらされるときに感じ取るものである。だいたいこんな表現も一般的には、わからないと言われてしまいそうである。

(2006年5月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同...
FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...

テーマ別アーカイブ