親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第226回「阿弥陀三尊が語りかけてくるもの」

親鸞仏教センター嘱託研究員

菊池 弘宣

(KIKUCHI Hironobu)

弥陀観音大勢至

 大願のふねに乗じてぞ

 生死のうみにうかみつつ

 有情をよぼうてのせたまう

(「正像末和讃」『真宗聖典』、505頁)


 浄土真宗の寺院の本堂には、阿弥陀如来がそびえ立つ。たのむべきは阿弥陀一仏という言葉のイメージと相まって、浄土真宗を一尊教、一神教のように見る向きもある。それに疑義を呈し、浄土真宗は、釈迦如来(教主)と阿弥陀如来(救主)の二尊教であるという了解がある。それこそが、親鸞の取る立ち位置にふさわしいと思われる。親鸞はまた、その釈迦如来の「如来」を「諸仏」として押さえ直し、選択本願の真意に立ち返る。そのことの大切さを思う。

 「一切の苦悩するものを救おう」という阿弥陀如来の本願に出遇って救われていった、三国七高僧をはじめとする無数の諸仏がたが世に現れ、阿弥陀仏の名を称讃し、そのいわれを語り伝え、本願に出遇うことを一人一人に勧めてくださるからこそ、私自身、南無阿弥陀仏と念仏申す中で、本願の救いにあずかることが成り立つと思えるからである。


 阿弥陀三尊という言葉がある。阿弥陀仏と観音・勢至の二菩薩のことである。親鸞は晩年の著作、『尊号真像銘文』に「「能念皆見 化仏菩薩」ともうすは、(略)弥陀の化仏、観音勢至等の聖衆なり」(『真宗聖典』、526頁)と記している。ここは、阿弥陀如来の様々な姿かたちの現れである化仏、そして阿弥陀如来のはたらきの両側面、慈悲の象徴である観音菩薩・智慧の象徴である勢至菩薩に出遇うのである、と了解してみたい。

 関連して、ずっと気になっているのは、親鸞八十八歳の時の作とされる「善光寺如来和讃」(『真宗聖典』、510頁)の「善光寺の如来」についてである。伝承によれば、それはインド、朝鮮半島百済、日本という三国伝来の阿弥陀三尊像・一光三尊仏であると言われている。しかし、そのことについて、親鸞がどう受けとめているのかは不明であり、そもそもそれが親鸞の作成した和讃であるのかどうかも定かではない。と、そのように前置きした上で、取り上げてみたい一つの伝承・語りがある。


 以下は、「善光寺如来和讃」五首(『真宗聖典』、510頁)の趣意である。
 「善光寺の如来」が、日本のわれら衆生を憐れんで、百済から難波の浦へと入って来た。しかし、その尊い名のいわれを知らない物部守屋は、当時、「ほとおりけ」という命を奪う熱病、「疫癘(えきれい)」が蔓延しているのは、その仏像=蕃神(ばんしん、異国の神)を祀ったことが原因であるとした。それで守屋は、「善光寺の如来」を「ほとおりけ」と呼んで貶めた。さらに守屋は、邪見至極であるゆえに、その如来の悪しき名がどんどん広まっていくように、呼びやすく「ほとけ」という蔑称で呼んで、貶めていった。だから語源的に言って、仏教を依りどころにする者が、如来を「ほとけ」と呼ぶのは、如来をいやしめることである、と。そういう意の和讃であると思われる。

 ここで気づかされることは、それが史実であるかどうかはさておき、日本における仏教の伝来、受容、流通の起源を「善光寺の如来」に託し、その語りを共有しているということである。そして、「善光寺の如来」は、疫病をもたらす疫病神として蔑まれ、忌避・排除されてきた位置をもつということである。


 その「善光寺如来和讃」の背景にあたるものとして、民俗学者の五来重は、著書『善光寺まいり』の中で、『善光寺縁起』の物語を紐解いていく。廃仏派の物部氏(尾輿、守屋)は、「善光寺の如来」に対して、人を使って執拗に破壊行為を繰り返し、二度にわたって難波の堀江に投げ捨てる。崇仏派の蘇我氏、聖徳太子は如来の救出を念じ、兵を挙げ物部守屋を討ち、仏法を興隆していくという流れはなじみのものである。

 その時、「善光寺の如来」は、火で燃やされても損傷せず、鉄で打たれても損壊せず、「光明いよいよ明らかなり」と記されているということである。迫害にさらされても、光り輝いていたという語りが心に残る。


 現在の大状況的な問題に目を転ずれば、新型コロナウイルスが世界を席巻し、変異株の問題に、私たちの生活の一挙手一投足が左右されているように感じる。まるで新型コロナウイルスという疫病をもたらす神に世界が支配されているかのようである。生活形態が変わっていった2020年の3月以来、2年にわたる私自身の在り方を省みると、知らぬ間に不安や恐れを抱え、自分自身および周りの身を守ることに躍起になり、なにかと他者のふるまい対して不寛容になっている。とりわけ、他国の人々に差別的なまなざしを向けてしまっている。結果として、身動きが取れなくなり、根幹にある意欲を著しく喪失してしまっているように思われる。


 そのように自己を省みた時、私は少なくとも仏法を興隆する側ではなく、迫害する側・守屋の側の人間であると思わざるを得ないのである。もう一つ、「善光寺の如来」の物語から私自身、問われていることは、迫害、忌避・排除に耐え忍び、なお光り輝いている存在があるという事実である。そして私は、それをきちんと知ることなく、知ろうともせず、知らぬ間に忘却の彼方に葬ってきたのではないかということである。

 心当たりを数え上げればきりがないけれど、私が踏みつけ、忘却してきた存在を改めて見出し、出会い直していくような生き方が、今、私自身に求められているように思うのである。

(2022年2月1日)

最近の投稿を読む

菊池弘宣顔写真
今との出会い第245回「今という『時』との出会い」
今との出会い第245回「今という『時』との出会い」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu)     「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」 (今咲いている桜が、明日も咲いているはずだと思う心があだとなります。桜は散って見られなくなるかもしれません。夜中に嵐が吹かないとは言い切れないでしょう)  それは、親鸞が9歳の頃、発心し、出家・得度(僧に成ること)を決意したその夕暮れ時、天台座主の慈円僧正から「今日は時間も遅いから、得度式は明日の朝にしよう」と告げられた折、その返答として、親鸞が詠んだと伝えられている和歌である。すなわち、「大事なことは、先送りにしてはいけない。今、ここぞという時にすべきである」という意であろう。実際、親鸞がこの和歌を作成して詠んだかどうかは定かではない。ただそこには、親鸞が向き合った課題と通じているものがあるように思われるのである。  ある日の「スポーツニッポン」(新聞紙)の裏一面、2023WBC日本代表監督で、大谷翔平選手の二刀流の生みの親とも言われる栗山英樹氏が、「自然からのたより」という自身の連載コラムに、この親鸞が詠んだとされる和歌を取り上げておられるのを見て、いささか驚いた。栗山氏は、「自然が教えてくれる「時」」として、主にグラウンドの芝刈りをするタイミングの問題と関連して、この親鸞の和歌の言葉を思い出すのだという。芝が整わないと、野球そのものに影響を与えてしまうことになる、と。詳しいことは割愛するが、要は、自然の摂理とタイミング、チャンスの問題にちなんで、栗山氏は、自身の野球人生に根づいたユニークな視点で、親鸞の名に託された和歌の言葉を、教えとして受け取っておられるのだと感じた。  2024年は、その、MLBドジャースの大谷翔平選手の活躍に沸いた年だったと言えるだろう。投手と打者の二刀流ではなく、打者専念だったが、シーズンを通して素晴らしい活躍をしてくださって、とてもうれしかった。左肩の負傷は心配だが、最後まで勇姿を見せてくださって、深い感銘を受けた。その存在が、私自身の今を生きる励み・モチベーションにもなっていると言える。しかし一方で、いわゆる祭りの後の寂しさのような一抹の喪失感を感じると共に、私自身、自己中心的な興味関心の虜となって、本来の自己が失われているように感じるという、周りが見えなくなっているという、また、そういった在り方をこれから先も繰り返していかざるを得ないことを予感するという、そして、そのことによって、今、本当に向き合わなければならない大事なことを見失ってしまうのではないかという、そのような苦痛も同時に、味わわせられているのである。この問題をどう受けとめるべきなのだろうか。  親鸞が言う「本願力回向の信心」とは、『大無量寿経』第十八願成就文に基づくものであるが、その「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の「一念」について、親鸞は、自身の著作である『一念多念文意』で、   「一念」というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。  (東本願寺出版『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕、初版535頁、第二版654頁) と解釈している。その「信心をうるときのきわまり」という表現について、「信心を獲得する時、その中の究極を表す言葉である」と読めるし、また、「信心を獲得するということ、すなわち時の究極を表す言葉である」とも読めるように思われる。いずれにせよ、時に関わる自己・主体という問題・課題をあらわしていると言えるのではないか。そして親鸞は、その「とき」の本質を、ことさら「臨終」の時に先送りする必要はないとし、「尋常の時節」・日常の「今」に見定め、「信心」を獲得するということによって、「今」という時は満ち極まるのだと、了解したのではないだろうか。  さらに、その内実を拝察すれば、いわゆる「機法二種深信」、すなわち「摂取不捨」という教えの言葉に照らされて、先に述べてきたような「迷いの自分自身の在り方」を失わない、そういう自分自身のすがたを明らかに知る。その上で、本来の一如・「一つである」という道理を憶念して、それを自身の直面する生活の現場で実現させることを課題にして生きる。と、私自身、そのように受けとめた。  要するに、「今、ここの自己自身による決定」という問題に集約されてくる。そういうわけで、冒頭の親鸞の出家・得度に関するエピソードの趣意は、親鸞の向き合った「信心」における課題に通底し、結実すると言えるのではないだろうか。  合わせて、このたび、オーストリアのユダヤ人精神科医・心理学者で、ナチスの強制収容所からの生還者であるヴィクトール・フランクルの以下の言葉が目に留まった。   生きるとは、問われていること、答えること  ──自分自身の人生に責任をもつことである。   ですから、生はいまや、与えられたものではなく、  課せられたものであるように思われます。  生きることはいつでも課せられた仕事なのです。   (V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』  〔春秋社、1993年〕所収「生きる意味と価値」57頁)  関連して、かつて大谷専修学院という場で、「問う者から問われる者へ」、「問われる者に成りなさい」というメッセージをいただいたことが、今、改めて憶い起こされてきている。  取り巻く状況が激しく変化し、物事がドンドン加速し、思考が先鋭化していき、関係性がいたるところで行き詰まりを迎えつつあると感じる、そういう只中にあって、時が極まるような今との出会いを切に願っている。 (2024年12月1日)   最近の投稿を読む...
繁田
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。    実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。    展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。    現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。    「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。    だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。    それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。   (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
IMG_1990
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
伊藤真顔写真
今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...

著者別アーカイブ