親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
「宿業(しゅくごう)」が、生得的な生存に付帯する生命力に関わるものであるというところまでなら、良く考えれば、肯(うなず)けるところであろう。ところが、この言葉が難しいのは、生きているところにぶつかってくるさまざまなことがら、人との出会い、事件との出遭(あ)い、その他の生きているところに与えられる諸条件も含めて、運命的というほかないようなその人の出遇(あ)いにも、使用されることがある。特に、時代の状況や社会的な環境汚染などによる被害にすら、この運命的決定を意味する「宿業」の語を用いてきてしまうことがあった。
人間の努力や配慮で避けることが可能なことにまで、不可避なことと諦(あきら)めよ、というような強圧的命法の意味に使ってしまうことすらあった。特に、歴史的社会的な政策や人為によって生み出されてきたものに、この言葉がもつ運命的な制約の面を押しつけてきたのである。こういうことによって、「宿業」という言葉自体までが、悪意あるものにされてしまったところもあると思う。
言葉には、その内包に説得的な真実をもつこともあるのだが、それが悪用されることが必ず起こってくる。言葉を取り巻く文脈がその言葉を使う人に依って変換されるときに、言葉の意味が逆作用を起こしうるのである。この点をしっかり見極めつつ、人間の苦悩の根に潜(ひそ)む一回の実存への、怨念(おんねん)のような思念を乗り越え、そしてそこから逃避的にしか人生を見られなくなることの悲劇から脱却するために、運命的限定ともいえるような存在の背景を受け止めていかねばならない。人間の生きていく事情に関わる面にも、たしかに不可思議の因縁としかいえない出遇いがあるし、事故や病気等にも、まったく偶然の出遭いもある。しかしこれらには、宿業という概念を入れることを控えていくべきではないか。その境界の見定めは困難なこともあるが、できるかぎり生得の生存を限定する背景として、いったんはこの言葉を押さえておきたい、と思う。
(2008年4月1日)