親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
法蔵菩薩の願心とは、『無量寿経』に説かれている菩提心の因果を内容とするものである。その菩提心の因は、四十八願を内容とする「国土を建立する願」として展開されている。その願には、国中の人天とか、国中の菩薩とか、さらには他方仏土の衆生や菩薩というような、それぞれの国土をみずからの環境として受け止める衆生の諸問題が、様々な形で取り上げられている。いわゆる自然環境のような形で清浄国土自体の荘厳を説いているのは、わずかに第二十八願、第三十一願・第三十二願のみである。国土の環境として「金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀」(『無量寿経』、『真宗聖典』29頁)等が説かれるところに、極楽国の荘厳の特色があるであろうと思われがちだが、意外にも本願の表現としては、そういう内容は圧倒的に少ないのである。
このことは、法蔵菩薩の精神に学ぼうとするとき、何より大事な方向性なのではないかと思う。『観無量寿経』には観の対象となる具体的な事象が、『阿弥陀経』には極楽国の様々の具体的宝物や環境的事象が説かれているのと比べるとき、この差異が大きいことに驚かされる。
この差異に注目して、親鸞が『大無量寿経』の宗・体について、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『真宗聖典』152頁)、あるいは「すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり」(同前)と述べられていることを捉えなおしてみると、親鸞がそこに真実教のあり方についての大切な指標を示されようとしていることが窺えるのである。そこから、真実の仏身・仏土に対応する方便化身・化土を開かざるを得ない必然的な意味が見えてくるのである。
国土というなら、そこに生活する国民にとって、平和で安穏な状態や、豊かな経済状況や豊富な文化的環境等が大切な課題になるところである。その表現の形は、さまざまな宝物類に象徴されるのであろう。そういう内実が確保される国土こそが、現実の衆生にとっては魅力的な理想の国土のごとくに思われる。
ところが、真実教の主題は法蔵菩薩の菩提心の因果を示すことにあるのであり、そういう国土のあり方を説き表すことにあるのではない。そうした国土は衆生誘引のために開く「方便・化身」の国土であるとされるのである。衆生の意識上の理想的国土は、凡夫にとって、いかに魅力的であり強い誘引力があろうとも、それ自体は方便的な意味しか持たない。
真実の願心のテーマは、天親菩薩が「優婆提舎」として説く「五念・五功徳」の因果による自利利他成就にあるとされているのである。この因果が、先の「本願を説」くことと「名号をもって、経の体とす」るということに対応するとされたわけである。これこそが、仏法の真実性を確保できる事実だということである。
(2022年11月15日)