嘱託研究員
飯島 孝良
(IIJIMA Takayoshi)
一休宗純(1394~1481)は、知名度という点では群を抜いている。たとえば、「一休さん、一休さん、はなおかの一休さん、ともしび灯す心~」という仏壇店のCMソングに耳馴染みのある方が、信州あたりにはおられるのではないだろうか。このテレビCMは長野県に展開する「はなおか」がはじめのようであるが、それ以外にも、米永(石川県)、かじそ(福井県)、ほこだて仏光堂(宮城県)、大黒堂(福島県)、開運堂(山梨県)などの仏壇店も、一休とタヌキ・ウサギが登場する同じフォーマットでCMを展開している。一見すると不思議な現象であるが、はなおかは「一休さん」の商標登録権を所有しており、同じCMを各社も利用しているということのようである。この一休のCMを用いている各社は、社名に「一休さんの○○」と冠するほど、そのイメージを定着させている。
一休は、やはり「とんち坊主」の親しみやすいイメージが強いようである。「あわてない、あわてない」のセリフで一世を風靡したアニメ『一休さん』は、中国やタイでも人気が高い。とはいえ、放送されていたのは1975年~1982年のことであり、いまの世代は絵本などで触れることが多いようだ。このため、最近の講義で一休のことを取り上げると、受講者の感想に「一休が実在したとはじめて知りました」というものが、年を追うごとに増えている気もする。
こうした現象は、歴史上で著名な存在をめぐってしばしばみられるものでもある。つまり、いつともしれず逸話や俗伝の類が追補されていき、或る部分が極大化することもあれば、或る部分が曲解されて伝わっていくこともある。そうして、虚像がどんどん拡大し多層化するのである。ときには、その実在すらわからなくなる、というわけである。
その一例として興味深いのは、真宗において、一休が本願寺中興の祖・蓮如(1415~1499)と親しく交流していたと伝えられてきたことである。これは、一休が修行した祥瑞寺と、蓮如が一時期活動拠点としていた本福寺とが、ともに堅田(滋賀県大津市)で向かい合う位置にあったことにも起因するものに思われる。ただ、これが単に逸話として伝わるのみならず、真宗教学でも言及されるようになっていく。その一例が、敬信『浄土真宗流義問答』(正徳六年[1716]刊)である。その巻三下には、徳川期の儒学者・永田善斎(ながた・ぜんさい、1597~1664)の漢文随筆『膾餘雑録』(かいよざつろく、承応二年[1653]刊)を引用しつつ、一休について言及している。永田が一休を「実に大悟明眼の一異人」であると評価していることに追補する形で、一休にはその世話をしていた尼の森侍者(森女)がおり、その師である華叟宗曇(かそう・そうどん、1352~1428)は大津堅田の祥瑞寺に蟄居して尼と漁業を営んでいたことから、華叟と一休はともに肉食妻帯していたと記している。そして、その肉食妻帯について今も昔も誰ひとり批判する者がなかったのは、その徳が高かったゆえである、と述べるのである。この記述が示すのは、大津堅田で真宗門徒に近いところにいた華叟や一休も肉食妻帯をしており、有徳であることから誰も咎めることがなかったことを強調する意図である。それは翻って、親鸞や蓮如以来、肉食妻帯をいとわぬ教えを受け継いできた真宗の在り方を改めて意識させるものといえる。ただし、華叟は正長元年[1428]に示寂していることから、応仁の乱(1467~1477)のときまで堅田に蟄居していたということは誤りであり、尼僧が傍らにいたかもはっきりとはしない。こうした一休像を提示するのは、ことによると、真宗側の牽強付会ともみえてくる。
もうひとつ興味深い事例は、徳川期の戯作である。山東京伝『本朝酔菩提全伝』(ほんちょうすいぼだいぜんでん、文化六年[1809]成立)には、一休が楽器を演奏する骸骨とともに酒宴を楽しみ、遊女との一夜を味わう姿が描かれる。「風狂」一休の面目躍如というべき場面であるが、その着想の源のひとつとなっているのは、『一休骸骨』(奥付は康正三年[1457])である。一休と思しき僧が墓場に迷い込み、そこで骸骨どもが呑めや歌えの大騒ぎを楽しむところから始まる本書では、人間が欲望におぼれ最後は虚しく没していくさまが、一貫して骸骨の姿で描かれる。内容的には「空」の思想など仏教の基本的な考えを示すものである(が、一休自身の真筆というわけではなく、一休の名を冠した入門書といった性格がある)。ここに描かれる骸骨の姿は、まさに『本朝酔菩提全伝』に描かれるものと重なる。この場面のもうひとつの典拠というべき徳川期の『一休関東咄』(いっきゅうかんとうばなし)第七「堺の浦にて遊女と歌問答の事」には、一休が「地獄といえる遊女」と歌の応酬をする逸話が伝わる。地獄太夫の姿を前に、一休は「聞きしより見て怖ろしき地獄かな」と上の句を示すと、地獄太夫は「しにくる人のおちざるはなし」と返すのである。己の生そのものを「地獄」と認識している太夫は、欲望のままに――つまり肉欲にあふれて――自分の元にやってくる男どもなど、空の何たるか、仏の何たるかがわかるまい、と批判するかのように挑みかかって来る。しかし、地獄太夫はそうした自身の生こそ、男どもを自らの煩悩に向き合わせる仏道そのものと捉えていたようにもみえる。ただし、地獄太夫の逸話は一休自身の手で書かれた漢詩集の『狂雲集』や『自戒集』、或いは一休の弟子たちによる『一休和尚年譜』などにはみられない。一休の「風狂」と相まって、そうした強烈なキャラクターが後代に創作されたものと考えられる。
いま、真宗での言及と山東京伝の描出を例にとったが、これらが全くの捏造であると言いたいのではない。むしろ、そうした像は一休が『狂雲集』『自戒集』といった著作類で述べる考え方に何らかの形で重なり、どこかで実像を髣髴とさせるものでもある。先ほど『浄土真宗流義問答』で言及のあった森侍者(森女)にしても、『狂雲集』で森女との純愛を詠い、生々しいまでのエロスを赤裸々に描いているのである。これは室町禅林文学ではもちろん、それまでの漢文学でも類をみないものとなっている。また『狂雲集』によれば、文明二年[1470]11月14日、一休77歳のときに住吉神社の薬師堂で森女と出逢ってその艶歌を聴き、翌年春に住吉の雲門庵で再会して、互いの思いを確認したという。また、『真珠庵文書』の「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」には、文明七年[1475]、一休82歳の時に酬恩庵内に敷地を買い取ることになったが、資金の一部を森侍者の衣服を売って用立てた、などと記載がある。森女が、一休の周辺にいたのは確かなのである。
こうして、一休は虚と実が入り乱れつつ、その魅力と毒気(!)を現代にまで伝えているように感じられてくる。いわば、一休像の虚と実が連鎖していきながら、我々にさまざまなことを考えさせもするのである。近松門左衛門は、「虚実皮膜論」(きょじつひにくのろん)といわれる次のような一節を開陳している。
芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。成程今の世、実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役(たちやく)のごとく顔に紅脂(べに)白粉(おしろい)をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生(はえ)なり、あたまは剝(はげ)なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此(ここ)也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。【中略】それ故に画そらごとゝて、其像(すがた)をゑがくにも又木にきざむにも、正真の形を似する内に又大まかなる所あるが、結句人の愛する種とはなる也。趣向も此ごとく、本の事に似る内に又大まかなる所あるが、結句芸になりて人の心のなぐさみとなる。
(穂積以貫「難波土産」発端に所収)
つまり、ウソとマコトが紙一重のような表現を以て、舞台上の演出は迫真のものとなるという。言い得て妙である。
どうやら一休の像も、虚と実が「皮膜」のようになって、我々の前にあらわれ続けているようである。最近は、可愛らしい小坊主ではない一休を描き出そうと『オトナの一休さん』(Eテレ、2016~2017)が制作され、本作の作画を担当した伊野孝行氏の『となりの一休さん』(春陽堂書店、2021)が刊行されるなど、「風狂」「破戒」というべき一休の実像がより一層着目されてきている。こうした破天荒な一休の姿を知ったとき、受け手のリアクションは「そんな姿に却って興味をそそられた」というものと「可愛らしい一休さんとのギャップにがっかりした」という真逆のものになりもするのである。一休像にどのような反応を示すかで、自らが重んじる価値観に気づかされることもあろう。いわば、一休像は自己の「合わせ鏡」として機能するものでもあるのかもしれない。
室町期の在世当時から、同時代の形骸化を批判しつつ女犯も厭わぬ言動で世をアッと言わせた一休は、果たして今なお「なやましい」存在といえよう。
(いいじま たかよし・嘱託研究員、花園大学国際禅学研究所副所長)