親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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第257回「存在の故郷」⑫

 人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。

 現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。

 ここに掲げた「存在の故郷」というテーマは、仏教の教える「真如」とか「一如」を存在が帰るべき故郷といただくことにおいて、人間存在が帰るべき本来性を解明しようとするものである。存在の本来性を回復することによって、生存状況それ自体に充足し満足できる道が与えられることを開示しようとするものである。

 仏道とは、存在の本来性の回復である菩提(その本来性たる無我、涅槃、一如などと表現される無為法を覚ること)に向かって、自己の満足成就を求める道である。その求める行為は、実は存在の本来性からの「故郷へ帰れ」という呼びかけなのだと了解したのが、浄土教の歩みであった。その呼びかけを唐の善導は「他郷には停まるべからず」と教え、「帰去来(いざいなん)」と呼びかけている。「安楽浄土」という表現には、この現世を「五濁悪世」と気づかせ、生存の成り立っている場所の問題性を相対化することにより、自己の本来性への課題に目覚めさせる意義がある。

 しかるに、その存在の根源への呼びかけは、「菩提心」として相続され、仏教徒である限り抱くべき精神的支柱と考察されてきた。その課題を、私たちを浄土へと呼びかける根源的な願(本願)とすることにより、大乗の大菩提が一切衆生に成就することが誓われることとなる。この本願の思想においては、この課題を担う真の主体は、一切衆生の根源的主体たる法蔵菩薩であると教えられる。すなわち個人的な菩提心の課題であったものが、衆生一切の根本的な課題となるのである。そして法蔵菩薩は、一如宝海から立ち上がったと解釈されることとなる。個人的な願心たる菩提心は、この広大なる願心に包まれ、この願心の成就を信ずることで、大乗の大涅槃を成就する道に立てるとされてくるのである。

(2025年元旦)