第Ⅲ期 映像記録
第Ⅲ期開催にあたって
『歎異抄』は、親鸞の直弟子によって記され、親鸞の生き活きとした語りを伝える書として有名な書物です。
『歎異抄』は、それぞれの時代の中で、さまざまな関心のもとで読まれてきました。たとえば、江戸時代には護教的な関心から破邪顕正(はじゃけんしょう)の書として、近代に入った後は、宗派という枠を超えて親鸞という個の信仰告白の書として読まれる傾向がありました。
この講座では、親鸞の言葉が現代の危機的な状況の中でどのようなリアリティをもつのか、また親鸞の言葉を相続していくとはどのような営みであるのか、これらの課題をもって、『歎異抄』思想がもつ現代的意義を聴講者の皆さんと共に解き明かしていきます。
これまで第Ⅰ期では、『歎異抄』に対するさまざまな誤解から『歎異抄』を解放し、『歎異抄』思想の現代における可能性を切り拓くという課題をもって巻頭の「序」をていねいに講読しました。
第Ⅱ期では、『歎異抄』の本文の第一章から第三章を、親鸞聖人の安心(あんじん)を表わす訓(おし)えとして位置づけ、『歎異抄』の「先師口伝の真信」を基礎づける思想とは何かを解き明かすことに努めました。
この度の第Ⅲ期では、『歎異抄』の本文の第四章から第六章までを拝読します。第四章以降は起行(きぎょう)を表わす訓えと位置づけることができます。起行とは、安心にもとづいた生活を意味します。とくに第四章から第六章には、安心に立つものがどのように他者に関わるのかについての仰せが記されています。
たとえば、慈悲とは念仏していそぎ仏になって衆生をすくうことである(第四章)、親鸞は父母の孝養のために一返も念仏したことはない(第五章)、親鸞は弟子を一人ももっていない(第六章)など、他者との関わり方を問い直してくる印象的な語りが出てきます。
この第Ⅲ期での学びを、私たちの自我関心に立った他者との関わり方を問い直す機会にできればと思っています。
(加来 雄之)
第四章 ― 浄⼟の慈悲(1)
2025年1月21日(火)
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第四章 ― 浄⼟の慈悲(2)
2025年2月18日(火)
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第四章̶̶浄⼟の慈悲(3)
2025年3月18日(火)
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第四章 ― 浄⼟の慈悲(4)
2025年4月15日(火)
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第四章 ― 浄⼟の慈悲(5)
2025年5月20日(火)
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第五章 ― ただ念仏と回向(1)
2025年6月17日(火)
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第五章 ― ただ念仏と回向(2)
2025年7月15日(火)
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第五章 ― ただ念仏と回向(3)
2025年8月19日(火)
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第六章 ― 親鸞は弟子一人ももたず 「ただ念仏」と師弟関係(1)
2025年9月9日(火)
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第Ⅱ期 映像記録
第Ⅱ期開催にあたって
本講座では、『歎異抄』を講読していきます。私たちが、今、すでに出遇っている宗教言説(「よきひとのおおせ」)を相続していくこととはどのような営みであるのかという視点から、『歎異抄』の思想がもつ現代的意義を聴講者の皆さんと共に解き明かしていきたいと思います。
浄土真宗にとっての20世紀は『歎異抄』の世紀というべきものでした。20世紀初頭に、それまで宗派内のテキストに過ぎなかった『歎異抄』が、清沢満之によって信仰の書として再発見されましたが、それから約120年が過ぎ、今日では日本の宗教思想を代表する書のひとつとして知られるようになりました。親鸞の人と思想とを、宗派の枠を越えて一般の人に開放する端緒となったのが『歎異抄』でしたし、日本という枠を越えて海外に紹介する先駆けの役割を果たしたのも『歎異抄』でした。
第Ⅰ期では、『歎異抄』というテキストに対するさまざまな誤解から『歎異抄』を解放し、現代における『歎異抄』思想の可能性を新たに切り拓くという課題をもって「漢文序」をていねいに講読しました。『歎異抄』とは、親鸞聖人の宗教言説の本意が見失われていることを歎き、その本質と力を回復する使命を、親鸞聖人自身の仰せ(「御物語」)に学ぶことで果たし遂げようとするテキストでした。
この度の第Ⅱ期では、『歎異抄』の本文の第一章から第三章を拝読します。このはじめの三章は、親鸞聖人の安心(あんじん)を表わす訓(おし)えとして位置づけられています。
とくに第一章は、親鸞聖人が法然上人の宗教言説をどのように受容したかを、これ以上ないほど簡明に示しています。『歎異抄』の思想を読み解くための根本となる章です。
第二章は、親鸞聖人自身が法然上人の宗教言説を相続していくときの立場を、「たとえ法然上人にだまされて念仏して地獄に落ちたとしてもまったく後悔するはずがない」などと感銘深く伝えています。
第三章は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という法然上人の宗教言説に対する親鸞聖人の独創的な受けとめが示される章です。いわゆる悪人正機説が出る有名な章です。
この三章は、法然上人の仰せを受けとめる親鸞聖人の根本となる立脚地を示しており、『歎異抄』思想を解き明かしていくための原点となります。
(加来 雄之)