一教師、仏教の学び方を知る

徳田安津樹 TOKUDA ATSUKI

 私は教師である。単に職業として学校で教員を務めているだけでなく、生き方として教師であることを、私は選択した。寺の子弟でもなければ、真宗学の素養もなく、親鸞思想を学問的に学んできたわけでもない立場でこのように親鸞仏教センターで職を得ることになったのは、奇妙な縁である。しかしもっと奇妙なことに、当センターに勤めるようになってから、私はかえって、自分が教師であることについて、つまり「教える」ということを本分として生きる者であることについて、いっそう自覚を深めることになった。この逆説的な事態は個人的にも面白いと思っているし、多くの人にとっても興味深く思っていただけるものと期待しているので、そのことについて整理したものをここに記してみたい。

 私が教師の道に進むことを決断する契機となった出来事はいくつかあるが、そのうちの一つを紹介させていただきたい。初めて高校で授業を受け持ったとき、私は教員としての職務をまっとうするための理想のあり方として、生徒から出てきたどんな言葉に対しても全力で応じる、ということを心に決めていた。この姿勢自体は悪いものではなかったと思うが、初めて教鞭を執ったということもあり、力加減が分からず、生徒の質問、解答、レポート等について細部に至るまでチェックしてコメントし、それだけで済ませればよかったのだろうが、一つでもあやしいところがあれば逐一指摘するということを厳格に行っていたため、一部の生徒から「厳しすぎる」との声が上がり、結果的に自分の未熟さと傲慢さとを痛切に思い知らされることになった。このような状況のなかで、しかし学期末に取ったアンケートに次のような回答があった。一人の生徒が、授業の良かった点として、「一人一人に真摯に向き合って対応してくれる点」を挙げ、その上で、「たくさん時間を割いて私たち生徒一人一人の学習を助けてくださる姿勢を見て、私も友達一人一人を大事にしようと思い、人との接し方が変わったと思います」と書いてくれたのである。多くの人にとってはありふれたコメントの一つに見えるだろう。しかし私は、それを見た途端、何とも言えない喜びと、「こんなにいい仕事が他にあるだろうか!」という感動で満たされたのである。

 オランダ出身の教育学者ガート・ビースタ(Gert J. J. Biesta, 1957-)であれば、私が理想とし、また生徒の一人が拾い上げてくれた「向き合う」という姿勢を、「応答責任」(responsibility)という言葉で表現するだろう。応答責任は「説明責任」(accountability)と対比的に語られるものである。説明責任が技術的・経営的な文脈で使われ、統治・管理システムとしての責任(例えば、学費に見合う教育水準や合格実績を保持しているかどうか)を意味するのに対し、応答責任は、あらゆる形式性を持たず、誰とも代わることのできない唯一の個人として他者の求めに応じる責任を指す。それは現実において他者と交流するときに現象し、具体的な実感を必然的に伴うものであるが、ビースタはこの応答責任を、教育的な関係性を構築するための本質的な要素として位置づけている(藤井啓之・玉木博章訳『よい教育とはなにか――倫理・政治・民主主義』白澤社発行・現代書館発売、2016年、77-107頁)。「向き合う」という姿勢は、教師の本質をなすものなのである。だとすれば、あの生徒は、「一人一人を大事にしよう」と思い、「人との接し方が変わった」と感じていた時点で、私が理想とする教師という生き方に、何らか参与してくれたことになるだろう。

 ところで、この話を当センターの同僚である大胡研究員にしてみたところ、「それは真仏弟子の話に似ていますね」という反応があった。親鸞思想に学問的に取り組んできていない私には真意が分かりかねたが、何か重要なヒントが示されたようにも思われた。幸いにも、同じく同僚である青柳研究員は博士学位請求論文として「親鸞の仏弟子観」を発表しており、つまりは「真仏弟子」の専門家である。そこで同論文を通読したところ、確かに先に述べた私の経験と共鳴するところがあるように感じ、また、その出来事をより深い次元でつかみ直すことができたという感覚があった。

 以下、先の経験がいかなる出来事であったのかについて、青柳研究員の前掲論文(以下、「青柳論文」と略す)を参照しながら、私なりに咀嚼したものを記してみたい。ただし紙幅の都合上、全容をここに記すのは難しい。そこで今回は差し当たり、仏の教えを前提としない一教師にとって、なぜ「真仏弟子」が問題となるのかをまとめておこう。

 最初に確認すべきこととして、「真仏弟子」とは、文字通り「真」の仏弟子(仏の教えに基づいて生きる者)のことである。平易には「本物の仏教者」と表現することも可能だろうが、「弟子」という言葉が使われていることが個人的には重要である。さて、「偽」でも「仮」でもない「真」の仏弟子であることを成り立たせるのは、ひとえに「信」ないし「信心」である(青柳論文2-3頁)。この「信心」とは何であるのかについては、さまざまな語によって説明されるが、その含意を極限まで切り詰めた表現が、かの「二種深信にしゅじんしん」であろう。「二種深信」は『教行信証』の要と思われ、本来ならこれについて語ることに力を注ぐべきであるが、今回は脇に措かせていただきたい。ここでは、その「信心」が「仏のはたらきによってしか実現しえないものであり、人間の自力心とは全く質を異にする」(同3頁)ものであることだけ確認しておけば十分である。私の関心はむしろ、その「信心」を得た「真仏弟子」とはいったいどんなあり方をしているのか、ということにある。このことについて集中的に述べられているのが「真仏弟子釈」、つまり「真仏弟子」はどのような存在であるのかについての親鸞による解釈である。それは『教行信証』のうち「信巻しんのまき」の半ばあたり(『真宗聖典』初版245-251頁)で展開されている。

 ところが青柳論文は、「真仏弟子」を探究するにあたって問題を「真仏弟子釈」の箇所だけに留めない。むしろ、『教行信証』全体にまで視野を広げた上で包括的にとらえようとし、その際、とりわけ「信巻」と「化身土巻けしんどのまき」という二つの巻に焦点を当てながら、「真仏弟子」のあり方を具体的に明らかにしている。これは青柳論文の大きな特徴であり、しばしばある見解のように「化身土巻」をその前の五巻のオマケとして扱うのではなく、それ自体に固有の、そして不可欠の課題があることを論じている(青柳論文57-63頁)。この手法は私にとっても非常に有益で、後に見るように、これによって「真仏弟子」の理解が拡張されたことで、「真仏弟子」は私にも議論しうる存在となった。

 さて、青柳論文は、「信巻」のはじめに掲げられているいわゆる「別序」(『真宗聖典』初版210頁)を、「信巻」のみに付せられた「信巻」固有の序文ではなく、「化身土巻」まで至る、「信巻」以降の四巻すべてを包括する文章としてとらえている。その上で、「別序」のなかで、「信心」を得るための必須の条件として「如来選択にょらいせんじゃくの願心」(阿弥陀仏が修行中の地位にあって衆生救済のために誓願を選び取った心)と「大聖矜哀だいしょうこうあい善巧ぜんぎょう」(釈尊が憐れみにもとづいて行った衆生に対する巧みな導き)が示されていることを確認し、この二つの要件が、それぞれ「信巻」と「化身土巻」に対応する課題であると見なす(青柳論文11頁)。つまり青柳論文によれば、「信心」は仏のはたらきによってのみ成り立つが、親鸞は、この仏のはたらきを「回向」(阿弥陀仏による衆生への信心の振り向け)と「方便」(衆生を信心へと導く具体的な方法)とに分節して、その上で、二巻のそれぞれでその具体的なあり方を検討しているのである(同35頁)。

 このような二つの要件が掲げられていることは、まずもって、「信心」が起こるためには阿弥陀仏だけでは不十分である、ということを意味している。むしろ釈尊、および釈尊の教えを伝える「善知識」(仏道に導いてくれる人、このコラムでは特に「師」たる人を想定している)が絶対的に必要である。無限の存在たる阿弥陀仏のはたらきは「善知識」を通して実現するのであり、「善知識」を通してのみ衆生は阿弥陀仏の「願心」を受け取ることができる。

 そのなかで「化身土巻」の固有の課題は、阿弥陀仏による無限なる摂取のはたらきの具体相において必然的に突きつけられる、衆生の現実のあり方である。つまり現実問題として、衆生は、仏の教えに出会いながらも、その教えを真の意味で生きることができないのであり、いつでも「偽」(仏の教えではないあり方)に転げ落ち、あるいは「仮」(自力によって往生を目指すあり方)に執着してしまう。「化身土巻」が主題とするのは、仏の大悲がそのような衆生をいかに摂取するかという問題であり、そのはたらきは畢竟、「善知識」による教化の問題として具体化される。衆生に仏の教えを伝えるのが「善知識」であり、衆生を仏道へと回復させるのもまた「善知識」である(同57-73頁)。

 以上の構図がきわめて興味深く感じるのは、私の個人的な事情による。つまり、あくまで外部の者として仏教に接している私からすれば、目に見えない根源的なはたらきについて語る「真実」の問題よりも、具体的・現実的な地平に現れているはたらきについて語る「方便」の問題の方が、はるかに理解しやすい。なぜなら、出会っている一人一人については、その存在をリアルに実感する余地があるからであり、これに対し、すべてのものの背景にある「大悲」なるものは、現実感を欠くように思われ、私にはその存在を正面から受け取ることができないからである。「大悲」の物語的表現としての「本願」や、その成就についても同様である。たとえその物語にある種の深い感動を覚えるとしても、だからといって根源的な働きの実在を肯定することに結びつくわけではない。しかし、「方便」についてはそうではない。現実に生き、そして現実に教えを説いた人間については、私自身の実存に直接かかわりうる問題として、その意義がよく理解できるのである。

 しかも、「善巧」と言われているからには、「方便」の問題は、むしろ私の関心のど真ん中にあたる。つまり、その語が示唆するものを汲み取るならば、釈尊や諸仏、つまり「善知識」たちは、具体的な場面において、それぞれの状況に応じて、人びととの触れ合いのなかで、それこそ一人一人に真摯に向き合って・・・・・・・・・・・・・教えを説いたに違いない。だとすれば、それはまさに教育の問題である。実際、「化身土巻」の主題に鑑みれば、親鸞がこの巻で注意を向けようとしているのは、「善知識」による時間と労力をかけた根気強い応答ではないだろうか。この巻で「信心」の問題が、各人の内面における無限なる阿弥陀仏との一対一の対峙による個人的な回心ではなく、師による絶えざる向き合いにおいて現実化していることを踏まえるならば、「真仏弟子」の議論は、教育の問題として真実味をもっている。

 念押ししておくが、私は仏教徒になりたくてこのような議論をしているわけではない。というより、正確には、「大悲」や「信心」といった言葉が、私にとって何を意味しているのか、よくわからないのである。あたかも異なる文化圏に生きる人の思考のように、その内容を推しはかり、いくぶん共感することができるとしても、自分のなかで確かなものとして引き受けるだけの実感がわかない。しかしながら、他者と向き合うということの切実さと困難さを垣間見てしまった私にとって、「真仏弟子」は無視することができない。「向き合う」という営みのなかにどのような深みがあり、どのような地平が開かれているのか、そのことに気づき、実践してきた先人たちがもし存在するのなら、私はその人たちに学びたい。かくして、阿弥陀仏や本願との関係だけに焦点があてられた場合にはアプローチしがたいとしても、現実に生き、現実において他者と向き合う、という文脈のなかでとらえるならば、「真仏弟子」は、信心の問題に主体的な関心を持っていない私のような者に対しても、きわめて重要な存在として立ち上がってくる。私は、こちら側の扉から「真仏弟子」に入門しようと思う。

徳田安津樹 TOKUDA ATSUKI

親鸞仏教センター研究員、東京大学大学院人文社会学系研究科博士課程(宗教学)在籍中
複数の私立の中学校・高等学校に勤務(非常勤)

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