涅槃寂静ということ
越部良一 KOSHIBE RYOICHI
親鸞は『唯信鈔文意』で、「涅槃」の別名の一つである「法身」について、「法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり」(『真宗聖典』第二版、東本願寺出版)と言う。涅槃は、心で捉えられず、言葉にならず、知られぬものである。無限なるものである。この無限者が、一体どのようなものなのか、引文をたよりに指し示してみよう。
法然の弟子、教阿弥陀仏は、もと「人をころし財をかすむるを業として世をわたりけるが、としたけて後、上人の化導に帰し、出家して教阿弥陀仏と号しけり」(『法然上人絵伝(上)』、第二十巻、岩波文庫)。この教阿弥陀仏に法然が言う、「まことの心にて」申す念仏は、「夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て」(同上)申すのであると。
涅槃とは寂静である。静かな境地である。心騒がしく、落ち着かぬ、そうした状態に真向かいになって、そうした状態の真反対のものとしてある。
小林秀雄は言う、「私達は皆ひそかにひとり悩むのだ。それも、悩むとは、自分を審くものは自分だという厄介な意識そのものだからだ」(「良心」『考えるヒント』、文春文庫)。
伝法然は言う、「しづかにおもひはんべるに、妄想顛倒のそこには有為の相続ねぶりいまださめず。悪性邪見のくるしみさかんなれば、法性の月いまだあらはれず」(「本願帰命之十ケ条」『昭和新修法然上人全集』、平楽寺書店)。
寂静は自身の内に、もともとあるものではない。寂静は真夜中の仏像である。もしも、しのびやかに起き居ることが、その仏像に相応しているなら、しのびやかに起き居るところに寂静はある。ひそかな心の騒がしさ、そのひそかであることに相応し、その騒がしさを乗り超えて、寂静はやって来たのであろう。
「この心を得なばかならずしも、夜にはかぎるべからず。朝にても昼にても暮にても、人のきくはばかりなからむ所にて、つねにかくのごとく申べし」(『法然上人絵伝(上)』)。「かくのごとく」とは、真夜中にひとり仏に向かうがごとく、である。
涅槃と共に人は生きる。人のまことのあり様は、世間には知られぬものである。

親鸞仏教センター嘱託研究員、法政大学・日本大学・立正大学、各非常勤講師。