親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
親鸞は、凡夫に成り立つ信心であっても、真実であり得るか否かを、徹底的に究明した。そして「信巻」において「本願成就」によってのみ、真実の信楽(しんぎょう)が成り立つことを明らかにした。先回、その本願成就の文を前後に切っていることに触れた。「信楽」について、「本願信心の願成就の文」(『真宗聖典』228頁)と言って「諸有(しょう)の衆生(しゅじょう)、その名号を聞きて信心歓喜(しんじんかんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん」までを引用し、「欲生(よくしょう)」について、「本願の欲生心成就の文」と言って「至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生(おうじょう)を得(え)、不退転に住せんと。唯(ただ)五逆と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とを除く」(『真宗聖典』233頁)と引文されているのである。
本願のはたらきによって、虚仮不実(こけふじつ)なる凡夫に真実の信心が獲得されるということを、本願成就の文の前半で明らかにした。「諸有衆生 聞其名号(もんごみょうごう) 信心歓喜 乃至一念」と。この「聞」について、「衆生、仏願の生起(しょうき)・本末(ほんまつ)を聞きて疑心あることなし。これを『聞』と曰(い)うなり。」(『真宗聖典』240頁)と釈されている。本願生起の意味を「名号」に聞き届けることによって、信心歓喜が成り立つ。それが「本願成就」の信なのだ、と。
では、欲生心成就によって、本願成就の後半の文が何を衆生にもたらすというのであろうか。本願成就の文の「至心回向」は普通には、「信心歓喜」した衆生が、何かに向かって「回向」するという文章である。さしあたり往生についてか、仏に対してか、ともかく「至心」に回向するというのである。
親鸞は、この釈文に先立って「至心」の釈義で、至心とは「真実」であるとし、至徳の尊号を体としている大悲の如来の「こころ」であるとした。衆生には真実は無い。虚仮不実であり、いつわり・へつらいのこころのみだと押さえた。そして、この「至心回向」が如来のはたらきでなければ、本願成就にならないと見て、「至心回向したまえり」と読んだのである。
「聞其名号」の主体は衆生である。ここで、「至心回向」の主体を法蔵願心であると読むのは、文法的には無理というほかない。しかし、「聞」の背景にも、「大悲願心のもよおし」があってこそ、深く自己の身の罪業が気づかされて、本願を信受できるのだ、ということであれば、ここで「至心回向」を「回向したまえり」と読まざるをえないということもうなずけるのではないか。
それが肯定できるなら、それ以降は、如来の「至心回向」によって、衆生に恵まれる内実を表しているのであるということも、納得すべきなのである。つまり、「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう) 住不退転(じゅうふたいてん) 唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」は、衆生が自分で発(おこ)す意欲で往生することを表そうとするのではない。如来の「回向」によって、衆生に具現する利益を表わそうとしているということ。浄土の功徳として衆生に与えられる「不退転」を、大悲の「至心回向」のはたらきで真実信心の内面に具現する功徳を表そうとしているのだ、と読むということ。これにうなずいたなら、『一念多念文意』に「かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚(じゅ)に住す」(『真宗聖典』536頁)ということを主張するのは、実はここに根拠があったのだ、と了解されるのである。
(2011年10月1日)