親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
親鸞直筆の板東本『教行信証』「行巻」に書かれている「正信偈」の「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣〈信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、すなわち横に五悪趣を超截す〉」(『真宗聖典』205頁)の文には、何度も書き直した跡が残されている。さらに、『尊号真像銘文』(正嘉二年、親鸞八十六歳)にご自身が「正信偈」の文として取り出した文には、「獲信見敬得大慶 即横超載五悪趣」(『真宗聖典』531頁)と書かれている。
偈文の都合上、七文字にしなければならないので、「獲信見敬 得 大慶喜 人」のなかから、二文字を削ることに苦心しておられるのである。「大慶喜」を「得大慶」とされるということは、「得」という字を入れたいという意向があるからであろう。ここの文を自ら注釈して、「「獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というなり。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。」(『真宗聖典』532頁)と言われているから、「得」には、信心を得るなら、すでに「大慶」を獲得(ぎゃくとく)しているという意味があることを表そうとしている。そして「よろこびうやまう人」とあるから、獲信の事実は「人」に起こって、「即ち横に超絶する」事実を人に与えていること、つまり横に「五悪趣を超截」していること、そこに大事な意味があることを、ここの段の意味としたい意向が読み取れる。
「横」は願力を表すから、願力に帰するならば、帰命の信を発起した人に流転を超える人生が横超的に開けることを示そうとしているのである。曽我量深は、「前念命終 後念即生」(『真宗聖典』245頁参照)という善導の文を、本願成就の「願生彼国 即得往生」(『真宗聖典』44頁)の文と重ねて、「信に死し願に生きよ」と了解した。獲信において、前念に生死流転の生に死んで、後念に如来が命ずる「欲生」のいのちに生きよということだ、と。死して生きる宗教的転換が、一念の「即」に「よこさま」に来る。そこに与えられる慶喜は、「大涅槃」(絶対自由の境位)から立ち上がって、大活躍する願力に呼応して呼び起こされる慶びだと言われるのであろう。
相対的な人間状況に繋縛(けばく)される五濁悪世の場であっても、凡夫の全存在を願力に託して生きるとき、その場が願力のはたらく場へと転換されることが、本願成就の「信心」の大慶喜の意味なのである。「真実報土の往生」とは、「自然の浄土」への帰入であるとも教えられる。願力成就の場とは、五濁悪世を障碍ある場とすることなく、無倦(むけん)に大悲を聞いていく生活に開かれてくるのではないか。そういうことが成り立つからこそ、有漏(うろ)の凡夫に無漏(むろ)の「金剛」の本質をもった信心が発起すると言うのだといただくべきなのであると思う。
(2015年4月1日)