親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
親鸞は、『大無量寿経』「横截五悪趣」の文と、善導の「横超断四流」という言葉を付き合わせて、本願成就の信心には「よこさま」に迷いのいのち、流転のいのち、すなわち生老病死・五悪趣を超える功徳があると考えている(『真宗聖典』243頁参照)。それによって、信心は「横超」の「菩提心」であるというのである。われら凡夫が自分の力や努力で仏道を成就するという方向を「竪(しゅ)」と言うことができるなら、一切衆生が平等に大悲願心に乗じて、流転のいのちを超えて大涅槃を得るということを、「横(おう)」の菩提心として明示できるのではないかと考えたのである。
その大悲の視座からするなら、菩提心と言っても「竪」のかたちであるなら、個人の努力による結果を求めることであるから、各発(かくほつ)の菩提心であると見るのである。それは、善導の偈文に「各発無上心」(『真宗聖典』146頁)と言われているけれども、「各発」ということに、「無上心(無上菩提心)を発(おこ)せども」、それを成就することはほとんどできないということを見抜いたのである(『真宗聖典』235頁参照)。また、「業因千差」(『教行信証』「真仏土巻」、『真宗聖典324頁』)という言葉もある。この世に生存するものは、皆それぞれ異なる業の果報を映す存在である。よく似た形や、同じ種族のもつ共通性はあっても、厳密には、個体としてのいのちには、同じものは絶対にない。人間として同じ民族や同時代人ということはあっても、人は「独生独死独去独来」の厳粛な事実を生きるのである。この視野から浄土を求めるなら、各発の欲求で業行(ごうぎょう)を積むことになり、その果は各々異なった果報となる。それを「方便化身土」と親鸞は押さえた。
それに対して、「共発金剛志」(『真宗聖典』146頁)と善導が言うのは、どういう意図があると見ればよいのだろうか。この「共発」とは、宿業の果報を超えた平等の願心を言い当てようとしているに相違ないと、親鸞は見たのである。だから「共発金剛志 横超断四流」という善導の言葉を手がかりにして、「横の大菩提心」(『真宗聖典』237頁)という概念を提出したのである。これによって、常識になっている菩提心理解に、「竪超・竪出」という超越のかたちを当てはめつつ、むしろ平等の大悲をよりどころとすることによって、新しく「横超」という菩提心があり、平等の「大悲による超越」という意味があることを提起できたのである。「共発」とは、衆生が各々発す意欲ではなく、平等の諸法から立ち上がる意欲を示そうとするのだ、と。「平等の諸法」を、親鸞は「願海平等」において受け止めた。浄土はこの願海平等から建立されているのである。だから、浄土への意欲は、浄土からの勅命であり、如来招喚の勅命なのである。この勅命に信順することには、願海平等の菩提心の意味があると言えるのだ、と。
(2015年6月1日)