親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
親鸞が明らかにする「金剛の信心」(『真宗聖典』537頁参照)は、貪瞋煩悩(とんじんぼんのう)の生活のまっただなかに発起する。それは煩悩の身を障碍とせずに、凡夫の生活のところに法蔵願心が超発することだから、「能生清浄願心(のうしょうしょうじょうがんしん)」(『真宗聖典』235頁)と言われる。この願心の発起は、「横超(おうちょう)」であると示されるのである。
われら凡心の発想は、これになかなかなじめない。常に自我の執心から、自分で発想することしか了解できないからである。如来の悲願が愚凡の衆生を場として発起するなどと言うことは、まったく理解不可能なのである。だから『無量寿経』は経典を結ぶにあたって、「難中之難 無過此難(難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし)」(『真宗聖典』87頁)と確認し、親鸞は「正信偈」の依経分の結びに「信楽受持甚以難 難中之難無過斯(信楽受持すること、はなはだもって難し 難の中の難、これに過ぎたるはなし)」(『真宗聖典』205頁)と押さえられるのである。
如来の大悲が名号を選択して、貪瞋煩悩を妨げとしない光明のはたらきを衆生に恵むことは、先回述べたように、煩悩の闇と大悲の光明が出遇う場を開くことである。この値遇(ちぐう)の場の事実が発起することを、本願成就文が「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)と言う。この信心は、煩悩の生活主体たる凡心とは、まったく質を異にした清浄願心の回向成就なのであるが、まったく異質であるということは、凡心の延長上に思い描く清浄性なのではない。それを「横」と表現するのである。
平面上で方向の異なる直線なら、かならずぶつからざるを得ないのだが、面が平行する平面上の線であれば、決して衝突することはない。この譬喩(ひゆ)のように、いわば、願力がはたらく面は、凡心の動く面とは次元を異にしているのである。凡夫の貪瞋煩悩の生活中に白道が発起すると表現されるが、その質がまったく異なることを了解するなら、白道を金剛心の発起(『真宗聖典』235頁参照)と親鸞が理解する意味が少しくうなずけるのではないか。
この金剛の信心が、「清浄報土の真因」(『真宗聖典』240頁)であると言う。因果で信心の生活を表すのは、『大無量寿経』の本願の教示の特質である。それは、われら凡夫の生活と如来清浄本願の交差するところに、未来世の五濁悪世の群生(ぐんじょう)に語りかけようとする「本願」の救済の事実が生起するからであろう。しかし、この因果は凡夫の生活する平面の因果ではない。清浄願心の因果である。この因果は、本来正覚の智慧の内容を衆生に語りかけるための、教えが方便する因果であって、この世の時間を挟む因果ではない。迷妄の衆生の平面とあたかも交差するごとくに語るが、異次元の平面のことなのである。
しかし、大悲の側から、凡愚を摂して大悲の場に触れしめるために、接点を「真因」として回向すると言われるのである。実は、この因はそのまま清浄仏土の果に直結しているのである。
(2016年3月1日)