生きているだけで――祝福と逸脱

親鸞仏教センター嘱託研究員
中村 玲太
(NAKAMURA Ryota)
◇誰かの誕生日
誕生日をお祝いする、ということの意味が、ながいことわからなかったが、やっと最近になって理解できるようになった。ずっと、どうして「ただその日に生まれただけ」で、おめでとうを言ったり言われたりしないといけないのか、判然としなかったのだけれども、その日だけは私たちは、何も成し遂げてなくても、祝福されることができる。
(岸政彦『断片的なものの社会学』〔朝日出版社、2015〕、「手のひらのスイッチ」より)
コロナ禍の生活に在って、他人の生活を垣間見るということがまったくと言ってよいほどなくなった。ソーシャル・ディスタンス等の他者への配慮をしつつ他者への想像力がなくなる中、ふと目にした言葉が「誰かの誕生日」。そうか毎日、誰かの誕生日か。このコロナ禍でも誰かが誕生し、誕生日を迎えていた。身近にもいた。誰しもが必死の努力が必要な中であるが、「何も成し遂げてなくても」祝福されるという日もやはり大切なのではないかと思う。そしてそう祝福することの難しさも思い知る日々である。
このような一首がある。
うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
(村木 道彦)
この短歌を紹介する歌人・穂村弘の解説を2箇所あげると以下の通りである。
「うめぼしのたね」とは一見奇妙だが、実際にはこれもまた「ベンチ」の上に置かれる可能性の充分にあるものだ。こう書かれたとたんに、いつかどこかでそんな光景を見たような気になるではないか。だが、短歌を作る現場においては、ここで「うめぼしのたね」とは、そうそう出てくる言葉ではないだろう。[…] 「うめぼしのたね」もまた、我々の意識の死角に入っているような言葉だと思う。
人間の生存を支える合目的的な意識こそが、ベンチ上に確かに在るはずの「うめぼしのたね」を、我々の目に映らなくしている、と。すべての人間にインプットされている「生き延びる」という目的とそれに向かう意識こそが、我々を詩のリアリティから遠ざけているのではないだろうか。
(以上、『短歌の友人』〔河出文庫、2013〕、「〈リアル〉であるために」より)
何か一つのことに向かって生活を収斂させている時には、意識に上らない死角のようなものが確かに在る。その死角を作る「人間の生存を支える合目的的な意識」の存在を指摘するが、コロナ禍の生活で再認識させられたのは合目的的な意識の重要性だ。しかも大衆が一つのことに対して合目的的になることのである。
我々が「生き延びる」ためには合目的的であることは確かに必要なことなのだ。これ自体、否定されるべきことではないし、実際生活上に否定できるものでもない。しかしその一方で、我々の生は一つの方向に収斂させることのできない複雑で複数のものであることもまた事実なのだ。単一の合目的的な意識の範疇には、必ず死角ができる。その死角にあるものは、気づかれずにひっそり叫んでいる痛みや不安の声かもしれないし、不意な悦びかもしれない。あるいはまったく無為な、しかし自在な何かかもしれない。
生存のための合目的的な時間とその範疇から外れた時間。その二つの時間を(それはある意味で不意に)行き来しているのがリアルな生の時間なのではないだろうか。故に「生き延びる」という意識は、「(合目的的な意識から離れて)ただ生きる」という希求と重なり合うものでもある。この行き来を難しくさせるのが危機の時間であろう。そして今はしっかりと生き延びる時であるとも思う。――せめて誕生日は後者の時間に、と願ってしまうが。
◇もう一つの死角
先に「我々の生は一つの方向に収斂させることのできない…」と述べたが、これは浄土教においても考えるべき問題ではないだろうか。往生浄土。浄土に〈生まれる〉ということであり、それは確かに未来を志向するものである。しかし、浄土教を学ぶ中で浮かび上がる問いはむしろこの今に〈生まれてきた〉ことである。これは偶さかの問いではないと思う。
青木敬麿は『念仏の形而上学』(弘文堂書房、1943)で、「光明無量、寿命無量と云う仏の体そのものは想い尽くすこともできぬ彼方にあるが、名と云う事実は我々の手の前にある。我々は名を媒介としてのみ仏と相接する。何故に名を媒介としなければならぬか、何故にその名が南無阿弥陀仏でなければならぬか、と云ふことは、併(しか)し我々が何故に生れたかと問うにも等しいことであろう」と語る。我々が想い計ることを超えた光明無量・寿命無量の阿弥陀仏(という彼方の存在)が、南無阿弥陀仏という名となって「我々の手の前にある」。なぜ仏は名として我々の前に表現されるのか、これを問うことは我々の生まれを問うのと等しいのだと。
筆者が研究する西山義の祖・證空(1177―1247)の言葉として、浄土に生まれることについて以下のようにある。
頓捨他郷、トイハ、法性ノ真理ヲ具ヘテ真如ノ都ニ住スベキ身ノ、妄心ニ催サレテ魔王ノ僕使トナリテ、三界ニ流転スルハ他郷ニ住セルナリ。然ルニ今、要法ノ力ニ依リテ三界ノ苦ヲ捨テテ浄土ニ生ズルハ、本国ニ帰ルナリ。故ニ、帰本国、ト云フ。
(『般舟讃自筆鈔』巻4;西山叢書4、57頁)
浄土に生まれることを「本国に帰る」と言い表すのであるが、この身はそもそも「真如の都」にいるべき身だったとする。しかし、真如の都である本国を妄心に導かれて離れ、苦しみの世界に流転してきたのだとする。この世界に生まれてきたということは、本来の在るべき姿からの逸脱、零れ落ちてきたのだ。ここで言われる「魔王」とはおそらく仏道を妨げる第六天魔王のことで、「魔王の僕使」とは自らを仏に背く存在として言い表した言葉だと考えられる。
(ちなみに細川涼一『逸脱の中世』〔ちくま学芸文庫、2000〕には、第六天について「中世の僧侶にとって、もし自分に驕慢の心が生じた場合、後世に生まれ変わるかもしれない世界として、地獄よりもより深刻に自らが関わる世界として意識された、ということができるであろう」と指摘している。第三章「第六天魔王と解脱房貞慶――謡曲「第六天」と伊勢参宮説話」より)
もとより真如の身であるという思想は證空に限った話ではないのであるが、證空の見出したものは、本来の在り方から逸脱したそのままに浄土を与えようとする大悲である。大悲の呼び声に逸脱した姿が知らされるとも言える。證空の言葉で言えば、「今仏願の不思議なる事を知る時、無始已来の諸悪悉く是を悟る事を釈し顕すなり」(『散善義自筆鈔』巻1;西山叢書2、187頁)と。そして自力かなわず、向こうから来る如来の姿が名号なのであり、我々の逸脱の象徴が南無阿弥陀仏なのである。
生きようとするその〈生〉とはそもそも何なのか。往生浄土が本来の在るべき姿に帰っていくという方向性をもつのは確かであるが、それと同時に在るべき姿では在り難い凡夫の実相を、それは理想の郷里に目が向くばかりでは死角となってしまう人間の生そのものを照らし出すものであるはずだ。
――逸脱した〈生〉を生きる我々はそのままで祝福され得るのか。その必要性が痛感されるとともに、改めて考えると難しい問題であると思う。少なくとも凡夫が容易く祝福される存在ではないのは事実だ。しかしそれでもなお響く、そのまま、の呼び声に我々は何を聞くのか。久遠の誕生とともに問われ続けている。
(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)
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