◆浄土教における否定と肯定法然・證空・親鸞
さて、上田やジェイムズの提示した宗教モデルをもとに、浄土教について考えてみよう。浄土教の祖師たちは、いずれも病める魂の持ち主であり、自己の罪悪をみすえている。
なるほど、法然は通仏教の側からも「智恵第一の法然房」と讃えられ、また持戒堅固の清僧と知られていた。しかしながら自身を「戒定慧の三学の器にあらず」と認識し、また「十悪の法然」「愚痴の法然」と自覚していたと伝えられている。その法然が称名念仏の教えを説いた。
ただし、念仏一行を「選択」したのは法然ではなく、阿弥陀仏であることを見失ってはならない。阿弥陀仏が余行ではなく、念仏を選択し、それを往生の本願としたということが『選択本願念仏集』の主旨であり、そのことが決定的な意味を有している。
この著作には、人間的生に関わる意味世界ではない、絶対の側からの働きが表現されている。上田の言葉に従えば、「いのち」の言葉が念仏なのである。その念仏の働きには自力無功という否定の契機が内包されている。
しかし、このような法然の立場は、念仏以外の行を修する仏教者から非難されることになる。また人間の意味世界を越えた絶対の働きと、人間の生の意味世界との関係が問われることになった。法然自身は、当時の社会の仏教や道徳の規範に則った清僧として一生を過ごした。
すなわち、このようにして法然は「人間として生きた」のだ。とはいえ、教団が大きくなり、信者が増えていく中で、この課題に理論的に答える必要もでてきた。
法然の高弟、證空は法然が残した課題に取り組んだ一人である。のちに浄土宗西山派の派祖とされた證空の教義は独特な名目や高尚な哲理を含んでおり理解は容易ではない。天台本覚思想に基づいた現実肯定の思想として誤解されることもある。
しかし、證空も病める魂の持ち主であった。證空は人間を総じて「濁世の凡夫」「垢障の凡夫」「垢障覆の衆生」と理解し、悪や罪を正面から捉えている。そして、仏性が遍満するとしているが、遍満する仏性は「弥陀の理性」であり、そのことの「領解」がなければ、衆生は三界流転するという。
さらに、念仏においても「自力の念仏」と「本願に相応した他力の念仏」とを区別している(『女院御書』下巻第七章)。阿弥陀仏の絶対性が見据えられているといえる。
しかし、領解の信心において、あらゆることの意味が復活する。通仏教の修行や世俗の道徳が生き返り、人間的生の意味が肯定されるのである。古来より法然は「諸行の頸を切り」、證空は「諸行を生け捕りに」したと評される所以である。
證空は現生往生である「即便往生」を表だって説いている。「生きて身を蓮の上に宿さずば念仏申す甲斐やなからん」。この和歌は、臨終時の往生(證空はこれを当得往生という)のみでなく、生きながら往生することの重要性を端的に表現したとされている。
證空はこのような独自の教学をもとに、人間として生きた。證空の場合、肯定の契機を強調することが多い。そのため、「生」から「いのち」への否定の契機がともすれば見落とされがちになる。後世において證空は、健全な心の持ち主のようにみなされ、生命主義的に解釈されることもでてきた。
親鸞の自己の罪悪性への自覚は痛切である。病める魂の典型的人物といってよい。親鸞の教えの核心は、阿弥陀仏の本願への疑いが滅して、正定聚に入って生きることにある。このことは、まさに虚仮のいのちを捨て真実なるいのちに生まれかわることを表現していることにほかならない。
法然への論難に対して答えることは親鸞にとっても課題であり、『教行信証』執筆の大きな動機であった。
残された課題の一つに菩提心の問題がある。親鸞はこれに対して、信心も自己がおこすものではなく、弥陀よりたまわるものだと示した。後世、絶対他力と称されるほど、弥陀の絶対性を強調したのである。
他力信心に関する論理を徹底させながら、親鸞も人間として生きた。しかし、親鸞も理論的課題をすべて解決したわけではない。人間的生の意味連関の中で道徳・倫理をどう捉えるのかという課題は、そのひとつであろう。信心を獲て、現生正定聚の中に入ることは、むしろ人間的生の意味連関の再構築の始まりとなる。
ジェイムズや上田の理論が必ずしも全面的に妥当するとは限らず、また浄土教をかれらの理論で考察する必要もない。しかし、浄土教の思想をその文字の表面的な意味理解に限らず、より普遍的な次元で捉え返すことは大切なことであろう。
浄土教は、現代に流布している「いのち教」と違うのか否か。あるいは、俗世から断絶した浄土を人間的生の次元に引きずりおろす転倒は生じていないか。いのちの肯定と否定の問題は、そのような問いを投げかけているように思われる。
岩田 文昭 IWATA Fumiaki
大阪教育大学教育学部教授
著書に、『近代仏教と青年――近角常観とその時代』(岩波書店、2014)、編著『知っておきたい日本の宗教』(ミネルヴァ書房、2020)など。
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