ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四部に、「ロバ祭り」という奇妙なタイトルの節がある。ツァラトゥストラが期待した「ましな人間」たちが、いつの間にかロバを崇めるようになってしまったことを批判する場面である。
ロバは「I-A(イーアー)」と鳴くことでどんなことでも受け入れる「肯定の精神」の象徴として、「ましな人間」たちによって崇められている。
注目すべきは、そのロバは、ツァラトゥストラ=ニーチェが推奨する「Ja(ヤー)」(英語のyesに当たるドイツ語)という「肯定の精神」と瓜二つだという点である。
つまり「ヤー」と「イーアー」の微妙な違いにこそ決定的な差が存在し、ツァラトゥストラ=ニーチェの考える真の肯定(永遠回帰の肯定)――それはこの世の悪のすべてを見据えることを要求する――とは、何でもかんでも肯定するロバの「イーアー」ではなくして、「ヤー」なのだ、 ※注2。
つまり「ヤー」と「イーアー」の微妙な違いにこそ決定的な差が存在し、ツァラトゥストラ=ニーチェの考える真の肯定(永遠回帰の肯定)――それはこの世の悪のすべてを見据えることを要求する――とは、何でもかんでも肯定するロバの「イーアー」ではなくして、「ヤー」なのだ、という話である(注2) 。
つまりここには先に述べた二つの「いのち」、いのち教的「いのち」と、生の否定の末に到達するはずの「いのち」との、決定的でありながら見紛いがちな差異と、同じ事態が俎上に載せられているわけだ。
問題はその先である。『ツァラトゥストラ』では明らかに「ヤー」と「イーアー」の決定的違いが話題にされているのだが、ニーチェ自身が別で展開している認識論的な枠組みからしても、そもそも「ヤー」と「イーアー」に客観的な違いが存在するとはとても言えない可能性が高いのだ。
そうなると、こう言わざるを得なくなる。自分の肯定が「ヤー」だと思っている人であっても、本当は「イーアー」と言っているのと変わらないのではないのか。
「いのち教」的生命礼賛を唾棄して、悪を見据えた先に辿り着いたつもりでいる「いのち」の肯定であっても、それもまた結局、「いのち教」と何ら変わらないのではないか。そこに真の違いなどというものが本当に存在するのか。――このように問うこと、問い続けることが、必要なのではないか。
そのような自問と逡巡にあくまで留まり続けることにこそ意味があるのではないか。岩田氏の論考はそう問いかけているのだと、私は理解した次第である。
(たけうち つなふみ・
龍谷大学経営学部准教授
訳書にバーナード・レジンスター『生の肯定――ニーチェによるニヒリズムの克服』(岡村俊史/竹内綱史/新名隆志 訳)。他論文多数。
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