秦漢時代の法律には次のような規定があった。すなわち、「史(書記官)や卜(占い担当官)の子は17歳になったら学びはじめる。史・卜・祝(卜とは別種の占い担当)の学童は3年間学ぶ。チューターは彼らを大史・大卜・大祝のもとにつれてゆき、郡の史の学童は郡守のもとへゆき、みな8月1日までに試験をする」、「史の学童の試験は『十五篇』によって行なわれ、5000字以上をそらんじ書くことができて、はじめて史となれる。

さらに「八体」によって試験を行ない、郡はその試験結果を大史に送り、大史が試験結果を読みあげる。成績最優秀者1人を県の令史とし、ビリは史としてはならない。3年間に1度、成績をひとつにまとめ、最優秀者を尚書の卒史とする」と。

これは前漢初期(前2世紀初頭)の律文であり、最近墓から出土した竹簡にしるされていたものである。いまや、これと似たような律文はその前後の時代にも存在したことが知られており、「5000字」を「9000字」とするなど、時代によって細部に相異があったことも確認されている。

少なくとも上記の律文によれば、地方政府の書記官や占い担当官はおもに世襲であったようで、その子は17歳で専門に学習を始め、20歳になったら試験を受けた。なかでも成績優秀者は、地方政府の書記官、さらには中央政府の書記官に任命されることもあった ※注6

試験の内容は、「5000字」(もしくは「9000字」)をそらんじることと、「八体」(8つのフォント)に習熟していることであった。教科書は『十五篇』なるもので、『史籀(しちゅう)』をさすと推測されている。『史籀』とは周代以来の漢字学習書であるが、現存しない。

それはともかく、このとき学童らが本当に3年間で5000~9000字を覚えたかは疑問も残る。なぜなら、現代日本の常用漢字は2136字で、それでも大学入試で満点の受験生は多くなく、そこから推しても中国古代の若者も漢字の暗記には手こずったとみられるからである(ひょっとしてこれは、5000~9000字の文章を暗唱するという意味であって、その文章を形づくる1文字1文字がすべて違う漢字であったわけではないのかもしれない)。

そのうえ学童は、大篆や、小篆、もしくは印鑑上の文字のごとく、あわせて8つのフォントにも習熟していなければならなかったのだから、決してやさしい試験ではない。しかしもし成績優秀ならば、県の長官(令、長)や副官(県丞)をささえる書記官(令史)となることができ、そうでなくとも県の各部署の書記官になれた。「県」は地方政府のことで、数千から数万人の民を統治していた。なかでも飛び抜けて優秀な者は、中央政府の書記官に昇進することができたらしい。

このように、文字の読み書きにかかわる官吏はもともと世襲制であり、せいぜい数百人に1人くらいがその仕事に当たっていた。さすがは「漢字の国」。いまから2000年以上もまえに、かくも漢字に習熟していた役人がすでに各地方政府に存在していたのである。

では、そのほかの人びとはどれくらい文字を読み書きできたのかといえば、やはり疑問が残る。1982年の中国でさえ、12歳以上の「文盲・半文盲」は全人口の約30%、60歳以上なら約80%にのぼった ※注7 。だとすれば、古代の識字率もそれほど高かったとはおもえないのである。

むしろ上記のごとく何千もの漢字を駆使できるのはごく一部の役人や学生に限られたのではないか。じっさいに、史書をひもとくと、文字の読み書きのできない者がしばしば登場する。たとえば赤眉の乱(紀元18~27年)に加わった諸将の多くは、文字がろくに書けなかったという ※注8

また『三国志』に登場する王平は、蜀漢の名将として知られるが、じつは10文字未満しか書けなかったという ※注9 。しかし王平自身には学習意欲がなかったわけではなく、いつも部下に命じて『史記』や『漢書』を音読させて歴史を学んでいた。このふるまいは奇しくも石勒とそっくりである。

どうやら中国古代にも、親鸞の時代と同じように、無文字階層の人びとが少なからずいたようである。現在の歴史家は、残された考古資料や文字史料をつうじて、彼らの存在に迫るしかない。私は最近、『古代中国の24時間』(中公新書)を著わし、中国古代の人びとの日常生活に迫ろうと試みたのであるが、やはり無文字階層にどこまで迫ることができたかには疑問も残る。

親鸞のごとく透徹したまなざしを無文字階層にそそぎ、そのことを書き残した史料でもあれば、中国古代の民衆の日常風景にもさらに具体的に迫ることができるのだが。現在陸続と出土している木簡や竹簡にそうした記載が含まれていることを期待するほかはない。


柿沼 陽平 KAKINUMA Youhei

早稲田大学文学学術院教授
近著に『古代中国の24時間』(中公新書)。他著書・論文多数。

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