■ファンタジックな対話劇・『地蔵菩薩本願経』
この経典は9世紀以降に中国で広く信奉され、台湾などでは今でも人気の経典だが、唐末か宋代に中国で製作されたとの見方が一般的だ。
やはり「如是我聞」と始まるが、「私」が聞いたという釈尊の説法の場所は忉利天宮、つまり世界の中心にそびえ立つ須弥山の頂上、帝釈天(インドラ)が住む天上の宮殿である。しかも説法の相手はここへ生まれ変わっていた釈尊の母(摩耶夫人)と十方の世界から来集したあまたの菩薩や鬼神の類。その衆生らは過去・現在・未来における地蔵菩薩による救済の対象である衆生だという、実にファンタジックな設定だ。
「忉利天宮神通品」から「嘱累人天品」まで全13章の中、釈尊と文殊菩薩、摩耶夫人と地蔵菩薩などさまざまな組み合わせの対話が章ごとに展開するが、第2章の「分身集会品」では釈尊と地蔵菩薩の対話が描かれる(その一部は別の視点で『アンジャリ』第39号でも触れた)。
「分身集会品」の冒頭もファンタジックだ。地蔵菩薩は分身の術を使い、宇宙に無数ある世界の無数の地獄に赴いて衆生を救済していたが、各地で救ったその無数の衆生と一緒に自身の無数の分身がそのまま忉利天宮にやって来る。
そして釈尊が金色の腕を伸ばしてその無数の地蔵菩薩の頭を撫で、いよいよ対話ということになる。ところが開口一番、釈尊は意外なことを言い出すのだ(以下、訳は取意)。
- 「私はこの五濁悪世で強情っぱりの衆生を教化してきたが、10人中の1、2人はそれでもなお悪習が残ってしまう。衆生には聞いてすぐに信心を起こす者もいれば、暗鈍で長々と教えてやっと仏法に帰依する者もいるし、ついに帰依しない者もいる。そういう種々様々な衆生に合わせて私は仏の姿だけでなく、男女、天龍鬼神、比丘や比丘尼、菩薩から王・宰相に至るまで、様々に姿を変えてその前に現れて教化してきた。おまえも私が長年の間、教え導き難い強情っぱりの罪苦の重い衆生をいかに苦労して救い続けてきたことか、よく見てくれたまえ。」
苦労を察してくれとは、いきなり何をおっしゃいますか、とは言わないものの、お地蔵さんも戸惑うに違いない釈尊の言葉である。だが釈尊は続ける……。
- 「私が教化しきれなかった衆生たちは、やがて地獄・餓鬼・畜生の悪しき道に堕ちてひどい苦しみを受けるだろう。そんな時におまえに思い出してほしいのだ。私がかつて忉利天で、私に代わってそんな衆生を救うようにと心を込めておまえに委嘱したことを。娑婆世界において、(私の入滅から)弥勒が仏として世に現れるまで、すべての衆生を残りなく解脱させ、永久に種々の苦しみを離れ、仏に出会えるようにしてやってほしい。」
実は釈尊は間もなく入滅しようとしていて、最期の言葉を地蔵菩薩にかけていたのだ。
■釈尊と地蔵菩薩、最期の対話
釈尊亡きあとに仏が現れるのは遥かなる未来の弥勒仏の世。入滅が迫る釈尊は、それまで延々と無仏の世に生きる衆生が哀れでならない。そこでどうやっても「悪趣」に堕ちてしまう衆生をみずからに代わって救ってくれるよう、地蔵菩薩に託してこの世を去って行こうとするのだ。
大乗仏典における釈尊は常に高潔で超人的だ。しかしここに私は(語弊を恐れずに言えば)極めて人間的な釈尊を見る思いがする。そして地蔵菩薩もまた、地獄の衆生を助ける万能の救済者のイメージが強いが、ここでは分身を集めて元の一介の僧の姿に戻り、ぼろぼろと涙を流してこう応じるのだ。
- 「私は長く仏に導いていただいたおかげで不可思議な神通力や大智慧を身につけることができました。そして身を分けて無数の世界で無数の人々を仏法僧の三宝に帰依させ、生死の苦を離れて涅槃の安楽に至らせてきました。衆生の善事がたとえ髪の毛一本、涙一滴、砂一粒、塵一つのようにごくわずかだとしても、 私は徐々に解脱させ、 大いなる悟りの利益を獲得させてやりましょう。ただ願わくは世尊よ、後世の悪業の衆生のことをどうかご心配なさらずに。」
地蔵菩薩は三度重ねて「ただ願わくは世尊よ、後世の悪業の衆生のことをどうかご心配なさらずに。」と釈尊に申し上げる。すると釈尊が次のように述べてこの章は終わる。
- 「よいぞ、よいぞ。私もおまえの喜びを助けよう。おまえは遙かなる昔におこした広大な誓願を成就して、広く衆生を救済し、まさに救い尽くしたならば、自分も悟りを開くがよい。」
これはいったいどういう「対話」なのだろうか。未来の世に悪趣に落ちる衆生に思いを残して去っていく釈尊と、その思いを引き継ぐことを誓って釈尊を安心させようと泣く地蔵菩薩。そしてそんな地蔵菩薩の本願がいつの日か成就するよう、みずからはこの世を去っても支え続けようと応じる釈尊……。二人の深い信頼と励ましが往還するなんとも人情味のある別れの場面だ。それでありながら、忉利天宮というファンタジックな舞台で邂逅していることで、フィクショナルな歴史的対話に留まらない永遠性・普遍性もある。
時空を越えるこの「対話劇」は、私たちに2つのことを問いかけてくるように思う。まず、時代は「五濁悪世」でそこに暮らす衆生の性質もさまざまだ。そんな衆生の前に釈尊も地蔵菩薩も種々の分身で現れる。それ自体は仏典では珍しくはない「方便」だが、今は教化者(仏菩薩)と被救済者(衆生)という枠を取っ払い、互いに同じレベルで理解し合う努力に基づく「対話」の象徴的な表現と捉えてみたい。
一人ひとりがさまざまな価値観や世界観、種々の罪悪や善良さをも併せもつ中、人は互いにどのように信頼し合い、「対話」を進めるべきか(塵一粒ほどの「善根」をも信じるというのも見逃せない)。第二に、釈尊と地蔵菩薩とのやり取りからは、私たち自身は(地蔵菩薩が去り行く釈尊から後を託されたように)、先人たちや歴史から、何を託されていて、どのような展望のもとで未来に何を残していくのか、そんなことも問われている気がする。
長引くコロナ禍でそもそも「対話」が希薄になっている中、私たちはさらに、「対話」がないがしろにされ、暴力で相手を屈服させようとする現実に直面している。ウクライナ情勢は私たちにもっと具体的な行動を要請するものかもしれないが、同時に、人や時代との「対話」ということを改めて考えてみることも大切ではないか。
漢文で『般若心経』の2.5倍ほど、わずか680字の、一幕ものの優れた戯曲の小品のような釈尊と地蔵菩薩との忉利天宮での「対話」から、そんなことを思った。
伊藤 真 ITO Makoto
親鸞仏教センター嘱託研究員
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