先述したように、情報発信者(つまるところの“インフルエンサー”と言えるだろうか)として己のスタンスを置く行為は、自分を発信者として権威づけ、受信者を受信者のままに固定する行為につながる。

 

一方で、「創作」という営みの末に生まれた「作品」には、そうした主客の固定を促すような性質は少ないように思う。

 

たとえば、私の大好きなバンド、BUMP OF CHICKENのボーカル・藤原基央さんは、自らの音楽をこのように語っている。

 

  • 「たとえばその曲と聴く人の間に10歩距離があったとすると、そのうちの5歩分しか近づいてこないような音楽。残りの5歩分は、聴く人のほうが近づいていかなきゃいけない。そして、そうやって5歩分近づいていくということに意味がある音楽だと思うんです」

(『MUSICA』2011年1月号、p. 35)

 

聴く者が歩み寄る5歩を、「解釈」と呼ぶのか「会話」と呼ぶのかは、人それぞれだとは思うが、私はこうした開け放された公園のような、受信者の能動性を促す営みを「創作」と呼びたいのである。

 

はじめは作り手から発信されたものだが、生まれ落ちた瞬間には手放され、受信者の心の中でうごめき、たくさんの「会話」を生み出す。そこに、発信と受信の主客を分かつ線はほとんど存在しない。創作は、まだ見ぬ誰かと私をフラットな地平に置き、主客入り混じった会話をもたらすのだ。

 

なぜそこまでして、私が「会話」にこだわるのか。それは自分が普段から何かを力強くプレゼンするよりも、人の話を聞いてうんうんうなずいたり突然ピコーンとひらめいたりしたいタイプだからということでもあるが、何よりも、私が大切にしている仏教という存在自体が、そうした「会話」が生まれ出る願いにあふれているからに他ならない。

 

たとえば、悟りを言葉で表してはならない「不立文字」という真髄、さらには規範であるはずのお経が「如是我聞」の文言からはじまっていること、「私の教えは、川を渡るための筏(いかだ)のようなものです。向こう岸に渡ったら、筏を捨てて行けばよい」と語ったお釈迦様の言葉など、仏教は常に「私」へ向かって投げかけられ、「私」の返答を待ってくれている。そうした解釈の余地がそれぞれに委ねられているところこそ、仏教という道のメインストリートなのだと私は思っている。

 

言い換えるならば、仏教を伝える際も、聞き手に解釈の余地が残されていなければならないと私は思うのだ。

 

だからこそ、『フリースタイルな僧侶たち』というフリーペーパーの編集長を引き受けたときに、まずはじめに思ったのが「情報誌にはしたくない」という決意であった。次に、漠然とカルチャー誌のように仏教を語りたい意欲に沸き立ったとき、宗教と文化とは根本的に何が異なっているのかと問いを立てた。