うちのお寺の檀家さんは農家の方が多く、大根だけではなく、お野菜、お花などのおすそわけを日常的にいただいている。

 

自分が育てた大根を他人に渡す。物心ついたときから、すぐそばにある当たり前の景色ではあるけど、決して当たり前とは思いたくない美しい景色だと常々思うのだ。人の手と大根の間にある、あのなめらかな関係性を忘れないようにしたい。そのようにいつも思っていた。

 

そんな記憶が言葉を濾過(ろか)したのだろうか。質問をされたとき、自分が世の中に出しているコンテンツや作品も、かつて檀家さんからおすそわけしてもらっていた大根のようであってほしいと思ったのだ。

 

自分という一人の人間の身体や、仏教という2500年続く悠久なる思想を通して、一つのまとまった“何か”が自然と実る。まずはそれを形にすることで自分自身の空っぽを満たしている。

 

その後におすそわけとして他者の手に渡すのだが、それは私の手から他者の手へ移動しただけのことであり、大それた目的だったり、ましてや市場なんて意識しちゃいない。発信なんかではなく、それは単なるおすそわけなのである。

 

先述したように、僧侶を主体にした情報発信は、どうしても自己のプレゼンスを高めるためのマイノリティの叫びとして消費されがちだ。

 

もちろん、必ずしもそれが悪いというわけではないが、少なくとも社会に自らの行為の意義を奪われたり、勝手に意味づけられたりしないように、私は身の回りの大切なものを一つひとつ確かめていきたいと願っている。

 

その点、大根はすごい。私にとっては遥か大きな存在なのだ。

 

思い出したことがある。小学校の美術の授業で、「大きな○○」という絵のお題が出て、クラスメイトの誰もが当たり障りなく「大きな太陽」だったり「大きな笑顔」の絵を描いているなか、私は「大きな大根」を描いたのだ。

 

なぜあのとき私は大根を描いたのか。そして先日、なぜ大根と言ったのか。それはあんまり問うても意味のないことなのかもしれないし、もしかするとそうでもないのかもしれない。

 

最後にみなさんに、この大きな大根の不思議をおすそわけしておくことにしよう。


稲田 ズイキ INADA Zuiki

『フリースタイルな僧侶たち』編集長
著書に、『世界が仏教であふれ出す』(集英社)など。

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